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南極観測の歴史の新たな一歩、PANSYの礎を築く。

南極域上空の観測を目的としたPANSY計画において、
三菱電機は、東京大学・国立極地研究所(以下極地研)・京都大学等と共に、
大気観測用レーダーの建設とそのシステム構築を担いました。
プロジェクトの記念すべき第一歩を刻んだ
第52次南極地域観測隊に参加した
通信機製作所の池田満久氏は、
PANSYレーダーの設計への参画とプロジェクト管理を担当し、
現地においては、PANSYレーダーを構成する
1,045本のアンテナモジュールの設置から観測開始まで、
まさにプロジェクトの礎を築く役割の一端を担いました。
厳しい環境下での1年におよぶ極地経験がどのようなものだったのか、
お話を聞きました。
※PANSYは、東京大学・国立極地研究所・京都大学等による共同研究プロジェクトです。

ゼロからのスタート

Q. 第52次南極地域観測隊に参加することになった経緯は?

私は三菱電機入社以前に、南極地域観測隊に参加した経験があり、それで今回、白羽の矢が立ったのだと思います。
ある日、暗い会議室に呼ばれまして、ボーナスの話かなと思って部屋に入ると、“もう一度、行ってみないか”と。まさに寝耳に水でした。2010年2月に情報技術総合研究所から通信機製作所へ異動となり、PANSYプロジェクトの担当になりました。それが出発のちょうど10ヵ月前。
PANSYプロジェクト自体は2000年にスタートしましたが、製造に関しては、当時ほぼゼロの状態。

本当に間に合うのか、というのが正直な気持ちでした。出発時期は決定していたので、それまでにレーダーを製造しなければならず、状況はかなりシビア。
レーダーを構成する屋外機器の形状、システムの微細な仕様などについて研究者グループとも何度もやり取りしながら試作をつくり、さらにマイナス40〜45度という極寒の環境下での使用に耐えられるよう試験を繰り返し、補強や形状の変更を加え、通信機製作所内の多くの部門の関係者の努力により、何とか完成までこぎ着けました。通信機製作所、ひいては三菱電機の底力を見たように思います。

固い岩盤との闘い

Q. 現地の作業環境は、どうでしたか?

出発は、2010 年11月24日。翌12月31日に南極観測船「しらせ」が昭和基地沖に接岸しました。この時期の南極はちょうど夏で、外の作業をするのに適した季節ですが、期間としては2ヵ月くらいしかありません。前回、南極を訪れた6年前の接岸が12月21日だったことを考えると、この10日間の差は大きいなと感じました。
実際に現地に入って作業を開始すると、岩盤が予想よりも固く、アンテナ設置の際にドリルで垂直に1m程の穴を空けるのですが、固いところにあたると、1〜2時間かけても数cm程度しか掘れません。想定外の事態で交換する部材もなく、掘削の担当者はドリル先端のビットの並びを溶接で変えるなど、現場対応でいろいろと知恵を絞っていました。

掘削機は4台体制で稼働していたのですが、低温下で長時間動かすため、思わぬ故障が発生する。壊れた一台を直すと、別の一台が壊れるというように、常に修理に追われていました。PANSY建設の担当メンバーは6名ですが、越冬組である私と極地研の研究者の方以外は、夏の間だけ作業に従事する夏隊。
2月には帰国するため、それまでに夏隊の他のメンバーの協力を得て、マンパワーが必要な屋外作業を何とか終えなければなりません。また、アンテナの設置だけがミッションではなく、3月の年度内に、55群で構成される1,045本のアンテナの一部の3群を運用するため、送受信モジュールを取り付け、ケーブルをつなぎ、電気を通して初期観測を開始するのが目的です。そのために機器の準備・ケーブルの敷設も急がなければなりませんでした。

太陽はどこに

Q. 天候には恵まれましたか?

実は、屋外作業をしていた2011年1月は、観測史上最低の日照時間で、天気が悪く、気温がとても低かったのです。夏場の南極は太陽が燦々と出て、日焼けするくらいですが、この時は、日照がほとんどなく、雪が降ったり、強風が吹いたりで、屋外作業をするには辛い日々でした。でも時間がないので、その中で作業をしていたのです。とにかく寒くて、みんな掘削機の排気ガスで暖を取ったりしながら掘削作業をしていました(笑)。
この時期、アンテナ建設作業と同時進行で、PANSYの屋内機器を設置する観測小屋・通称“PANSY小屋”を更地から建て始めました。とにかく人手が足りないので、設営隊員の指導の下、他の観測隊員やしらせ乗組員の力を借りながら、基礎を打ち、床・壁を建て、屋根を付けて完成させ、とりあえず大型の機材を収納するところまでは終わらせました。

そして夏隊・しらせ乗組員が昭和基地を離れ、帰国の途についた後、越冬隊員の協力により、残りの精密機材を運び込み、電気、光ケーブルを引いて、観測できるように環境を整えました。3月末までに初期観測を開始するという計画だったので、残された時間の中で、国内にいる通信機製作所の担当者と何度もメールでやり取りしながら、初期観測に必要な3群の機器を起ち上げて調整を進め、ぎりぎりのタイミングで観測可能な状態にしました。
その結果、何とか3月24日に観測データを取ることに成功し、ほっと胸をなで下ろしました。その後の越冬を含めて、この瞬間が、いちばん嬉しかったですね。「ああ、何とか間に合った…」と。

不測の事態

Q. その後、観測は順調に進みましたか?

4月半ばにA級ブリザードと呼ばれる猛烈な風を伴う地吹雪に見舞われ、アンテナを含めて外にあるものは半数以上雪に埋もれてしまいました。アンテナを設置したエリアは、雪の影響の少ない場所として選定されていたので、予想外でした。1,045本のアンテナのうち、電波を出しているのは57本。
残りのアンテナは、次に来る第53次隊が機器を接続して、フルパワーで観測する手はずでしたが、このまま放置すると、雪が重みで締まる時の力、沈降力の影響でアンテナが壊れてしまう可能性がある。来年からの本格観測に影響が出るとの判断から、雪に埋もれたアンテナのエレメントは取り外そうということになりました。

つい最近まで苦労して設置していたアンテナを、今度は撤去するわけです。複雑な気持ちでしたが、自然相手なので仕方ありません。撤去するにしても、アンテナのエレメントを取り外すには、深さ1〜2mは掘る必要があります。アンテナは十字型で3m程伸びているので掘る面積も広く、作業はなかなか進みません。
しかも、最大瞬間風速45m/sを超える風で吹き付けられた雪は、上を歩いても足が沈まないくらい硬く締まった状態。スコップを四方に差し込むと、ブロック状になって取れるような具合です。他の越冬隊員の協力も得ながら撤去作業が続き、ひと段落したのが7月中旬。結局、3〜4ヵ月間、雪と格闘していたことになります。

地球を感じて

Q. 今回の南極滞在は、天候を含め、どのように感じましたか?

個人的な感覚ですが、6年前よりも氷が厚く、雪の量も多くなってきているように感じました。その後もブリザードが何度もやって来て、PANSY小屋が埋没の危機に見舞われるなど、1年中、雪に悩まされました。南極にいると、むき出しの自然の中で地球と向き合っている実感があります。日本での普段の生活では、なかなか地球を感じる機会などないと思います。建物の中にいれば、床や絨毯の上を歩き、屋外でも舗装されたアスファルトの上。直に地球の上にいるというイメージはない。

でも、南極は地球そのもの。その上に自分が立っている感覚があるんです。あそこに、遊びの自然はありません。でも、基地の建物ですら吹き飛ばされそうな感覚に陥るほどのブリザードが続き、恐怖を感じる時があるかと思うと、一転、晴れ渡ると、きれいなオーロラが見えたり、ペンギンと出会ったり、ほのぼのする一面もある。地球というのは本来、そういう恐ろしい顔とやさしい顔を併せ持った存在なのだと思います。それを全身で感じることができました。

最小単位の街

Q. 昭和基地内での生活は、どうでしたか?

越冬隊は30名しかいないので、基本は自立した個として判断し、行動できることが求められます。でも、困った時はみんなで助け合う。それぞれが各分野の専門家ですから、その意味でも自立した集団だったと思います。昭和基地での生活というのは、ある意味、小さな街・社会に暮らすようなもの。発電も送電もしていて、水もつくるし、下水処理もされています。

小さいながらも、インフラすべてが整った最小単位の街なのです。だからこそ、何かあれば、すべて自分たちの知恵と力で解決しなければなりません。誰かがやってくれるといった感覚は、そこにはありません。そういう意味では、日本での快適な生活で忘れがちなことを再認識する場でもありました。

越冬隊の絆

Q. 隊員同士のコミュニケーションで心がけていたことは?

1年間、一緒に暮らすわけですから、家族みたいなもの。娯楽がないところなので、月1回は何か企画して、みんなで体を動かしたり、楽しんだりします。それぞれに役回りがあって、私はスポーツ係でした。
担当した5月のイベントでは、流鏑馬(やぶさめ)を企画しました。台車に乗って、自走している間に手作りした弓矢で的を射る、という単純なものですが(笑)、これが結構、盛り上がりました。

何もないところですから、みんなが頭をひねって工夫して、ないものは手作りして、当然、安全対策も万全にした上で、一緒に楽しむ、そういう雰囲気でした。一つの共同体として長い時間過ごしていると、この暮らしが永遠に続くような不思議な感覚になります。
でも、いつか終わりは来る。次の第53次隊が到着した時は、一抹の寂しさを感じるというか、僕たちの昭和基地に知らない人たちがやって来たと(笑)。そういう妙な感覚になりましたね。

歴史の継承者として

Q. 滞在した期間を振り返っての感想は?

昭和基地というのは、人類の歴史みたいなものを感じるんです。PANSY計画でいえば、私たちが設置したアンテナやPANSY小屋、機器類を、次の観測隊が引き継ぎ、観測を行い、それをまた次の観測隊に渡していく。もちろん昭和基地自体が、第1次隊の隊員たちの苦労によって建てられたものを引き継ぐかたちで、少しずつ大きくしてきたわけです。
大型の建物なら、1年目は土台だけ、2年目は外壁、3年目に内装をしてやっと入居できるというように、次に使う観測隊のために、自分たちが手をかけ時間をかけて造っていく。そうやって少しずつ整備し、徐々に便利で快適な基地ができてきたわけです。

きれいな水洗トイレが使えるのも、昔の観測隊たちが造ってくれたおかげで、私たちはそのことに感謝して使わせてもらう。来年、再来年のために、自分たちが土台を造るんだという意識があって、そこに脈々と続く人類の歴史というものを感じます。昔の人が造ってくれたものがあるから今がある。それを少しでも良くして、次に渡していく。
昭和基地にいると、そういう時間の流れ、歴史の重みを実感するのです。長い歴史の一コマを自分が引き継いで、次に渡していくというように。私自身は今、PANSY計画からは離れていますが、プロジェクトの動向はやはり気になる。進捗はいつもチェックしています。

最後に

Q. もし、また南極に行ってほしいといわれたら?

昭和基地を離れる時、やっと日本に帰れるんだと思いました。やはり日本がいちばんいい(笑)。でもどうでしょう、時間を置くと、また行きたくなるんですね。

南極には不思議な魅力がある。もしかすると、何年後かに、また南極で雪と格闘しているかもしれませんね(笑)。

写真提供:©52次観測隊 池田満久

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