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My Purpose 技能伝承 My Purpose 技能伝承
Voices 2023.11.13

溶接一筋で、黄綬褒章を受章した現代の名工。
好きという原動力と後進育成にかける思い

  • #私のChanges for the Better
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素材と素材をつなぎ合わせる溶接という作業。聞けば単純だが、コンマ何ミリという単位で仕事の良し悪しが測られるほど精緻な技能がものをいう世界だ。山田雅巳さんはその道を極め、令和3年に国から黄綬褒章を受章した。誰もが認めるその技能はどのように培われ、その後の時代や環境の様々な変化をどう乗り越えてきたのか。

今でも大好きな溶接に入社直後に出合えた幸運

取材中に工場の敷地内を回っていると、ちょっとした冷やかしや相談事含めて、山田さんに声をかけてくる人がとても多いことに驚いた。山田さんが気軽に話せる“おやっさん”として、この工場で頼りにされているのがよくわかる。それもそのはず、彼の現場に関する技能と知識、経験は社内でも随一と言える。ではいつから技能者としての人生が始まったのだろう?

「中学校を卒業して入ったのが、三菱電機の職業訓練校です。中学までに自分は手先が器用やなということには気づいていて、将来は何かモノづくりをしたいなと。本当は大工になることも考えていたんやけど、親から大きい会社に入って安定した生活を送ってほしいと言われていましたね。それもあって、三菱電機を選びました」

山田さんの入社は1979年。終身雇用や年功序列が常識で、安定志向も今よりずっと色濃かった時代の堅実な道として三菱電機を選んだ山田さんは、溶接にいわば一目惚れする。

「職種別の基本実習を受けてから自分がどの職種に行きたいかを聞かれるんです。三角関数とか計算が嫌いだったから機械はパス。ハンマー振りとかしんどいことが多い鉄工もパス。そんな中で、溶接はめちゃくちゃ面白かった。やればやるだけどんどん上達するし、さらに奥深くなっていく。これやったらなんぼでもできるなと。振り返ると、この面白いという感覚があったからこれまで色々と達成できたんかなと」

技能五輪での挫折と乗り越えた思いの強さ

技能五輪を終えた直後で、道具や作品を運ぶ本人

溶接を職業訓練校で学ぶうちに、山田さんは技能五輪と呼ばれる、技能の高さを競い合う大会を強く意識するように。ただそこで挫折を味わうことになった。

「技能五輪でちゃんとした成績を収めるというのが、当時の目的でした。でも、1年目の技能五輪では、いい成績が取れずに悔しい思いをしたんです。2年目では、絶対に一番を取りたい、取れんかったら、三菱電機を辞めて田舎に帰ろうという意気込みでした」

執念にも似たその思いが実り、2年目には見事一位を獲得し、世界大会にまで出場できた。1年目に比べて、何かやり方を変えたのか、単純に練習の量を増やしたのか。何がポイントだったのだろう。

「やっぱり気持ちだと思います。技能の方は、1年間やればそこそこいくんです。溶接は一発勝負なところがあって、やったら修正できない。最初から最後まで完璧にやらないかんし、本番でうまくできるかどうかは、ほんのちょっとの差なんです。僕は験担ぎじゃないけども、一番をずっと意識してて、例えば、信号でみんなが並んでいたら一番先に出るとか、自分の中で一番ということを意識して、プライベートも何も関係なく、そこに注ぎ込んでましたね」

25年に及ぶ現場仕事を支えていたもの

訓練校を卒業し現場に配属された山田さんは、そこから2年間技能五輪の訓練を受け、世界大会で優秀な成績を収めた。大会終了後に現場での実務を開始したが、技能五輪での高い技能がそのまま使えるかといえばそんなことはなく、現場には現場のやり方があった。

「現場でモノづくりをする人はすごい人ばかりでしたね。技能五輪で優勝した自分がいきなり現場に入っても、すぐにモノづくりができるわけではないんです。その道のノウハウは、先輩のやり方とかを見て真似たり、教えてもらったり、自分で勉強して身につけていくもの。ただ自分は、元々技能五輪で基礎はできてましたから、そんなに時間もかからずに吸収できたと思います。そうすると現場の人も認めてくれるようになって。会社の仲間みんなで遊びに行ったりと、楽しかったですね」

現場での作業年数は25年にも及んだ。どのような思いで長年仕事に邁進してきたのだろう?

「先ほども言った通り、仕事は楽しくてしょうがなかった。現場に入って、悩んだことや苦労したことはなんですか? と聞かれることもあるけど、苦労したという意識はなくて、ただ楽しくやっていた記憶しかない。もっとうまくやれるようになりたい。そういう思いでしたね。いまだに溶接をやりたくてやりたくて仕方ないし、面白いんですよ

意表を突かれた品質管理への異動

溶接一筋、現場一筋で技能を磨き上げてきた会社員人生の転機がやってきたのは、入社してから25年経った40歳の頃。溶接が好きで好きで、一生現役のつもりだった山田さんに、品質管理への異動の声がかかる。

「会社を退職することまで考えましたね。 品質管理は、人の仕上げた製品をチェックして、ある意味では文句をつけないといけない役。自分がモノづくりしていた時は誰にも文句言わせないという思いでやっていて、逆に自分が品質を判断する立場になったら、言われた相手は絶対嫌な気持ちになるのはわかってました。だから、面白い仕事とは思えなかったんですよね」

自分か、会社か。結果として会社を選んだ山田さんの背中を押してくれたのは、尊敬する元上司の言葉だった。

「『会社も山田さんにただ溶接をさせるためだけに育ててきたわけじゃないぞ。山田さんならやれると思って、声をかけたわけだから』と。その方が言ってくれるなら…ということで品質管理に異動しました。実際にやってみると、現場で自分自身が手を動かして作り出すのではなく、流れているものをいかに良い状態にしていくかという取り組みは、楽しみの一つですね。どうしたら基準を満たす良品に変えられるのかを判断してくれとみんなに頼られているというのは、素直にうれしいところ。全体を見渡せる品質管理にいるからこそ、全体の底上げに貢献できているのかもと感じます」

世界や社会を意識したもう一つの“現場”

溶接が好き。この真摯な想いが山田さんをその道のプロフェッショナルへと向かわせる原動力となったのは間違いない。一方で三菱電機だからこそ感じられるやりがいも、彼が仕事に励む理由の一つだった。

「これまでに電力ライフラインの安定供給に貢献する開閉機器を中心に、社会インフラに関わるいろいろなものを溶接してきました。そこに住む人達の生活を左右するような大事なものを作っているんだというやりがいを感じられたのは、三菱電機に入ってよかったと思うことの一つです」

自分が溶接したものが実際に使われている“現場”に立ち会ったことも、大きなやりがいを感じたきっかけだという。

「三菱電機の開閉機器は日本各地はもとより世界中で使われているので、地方や海外にも出かけて、現場で溶接することもありました。工場でモノづくりだけしていると、自分が作ったものがどんなところに行ってどんな働きをしてるのかということをイメージしづらい。でも、いざ自分が使う場所に出向いて作業して、自分が作ってるものはこんなところで役に立ってるんやというところを見ると、少しは世の中に貢献できているんだなという気持ちになりますよね

黄綬褒章を受章したことによって満たされた思い。
そして新たな思い

黄綬褒章の賞状

山田さんを押しも押されぬ名工であると会社内外に示したのは、やはり黄綬褒章の受章だろう。黄綬褒章は内閣府が「農業、商業、工業等の業務に精励し、他の模範となるような技術や事績を有する方」(内閣府HPから抜粋)を選び、表彰するというもので、いわば山田さんが持つ技能に国がお墨付きを与えたということ。

「黄綬褒章を最終目的にしていました。この一つ前にいわゆる『現代の名工』と呼ばれる賞も頂いたんですが、黄綬褒章は絶対取らないかんという使命感がありました。頂けてやっぱり嬉しかったし、国から認めてもらえたということで、自分の会社員人生が間違いじゃなかったんだなと思えました」

山田さんが感じていた、黄綬褒章を取らなければならないという使命感は、自分のためだけでなく、後輩たちのためでもある。

「僕らが先輩を見て、先輩に続かないかんぞと思ったのと一緒で、僕が黄綬褒章を頂くことによって、後輩たちが山田さんもあそこまで行けるんや、よし俺らも、という見本になれるんちゃうかなと。こうなりたいと思ってくれたら、僕はしめたもんやなと思うんですよ」

マイパーパスは、技能伝承

黄綬褒章を受章し、自他共に認める技能者の頂上へとたどり着いた山田さん。ではここから先はどんなモチベーションが彼を突き動かしていくのか。

技能伝承。これが僕のマイパーパス。僕が三菱電機に入ってずっと教えられて培ってきた技能を後輩に引き継ぎたい。でないと、やめるにやめられない(笑)。自分の中だけに技能をとどめて、自分が消えると同時に失ってしまうのではなく、ちゃんと残して継いでいってもらいたい。もちろん技能もそうだけど、精神的な部分も大きい。モノづくりしている工場やから、自分が溶接やる時は、絶対文句言われへんもんを作ってやるんやという覚悟で製品を作ってほしいんですよ」

最後に三菱電機の第一線の現場で長年従事してきた山田さんに、これからの三菱電機がどうあるべきか? という大きな問いかけをぶつけてみた。

「どうあるべきか…、どうなんやろね。僕はモノづくりに携わってきた人間ですから、やっぱり自分が作ったものを自信を持って客先に納めるというのが1番大事なところやなと。そういうところを丁寧にコツコツやっていくしかないと、モノづくりの人間としては思いますね

山田 雅巳

INTERVIEWEE

三菱電機系統変電システム製作所山田 雅巳

中学卒業後、1979年入社。溶接の第一線に従事し、数々の賞を受賞してきたのち、40歳を機に現場を退き、品質管理の道に。卓越した板金溶接技能と溶接ロボットの導入や後進への技能伝承などが評価された黄綬褒章をはじめ、数々の技能賞を受賞。

掲載されている情報は、2023年9月時点のものです。

制作: Our Stories編集チーム

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