私の台所
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第六回暮らしの真ん中に台所がある幸せ紹介制うどんスナック『松ト麦』店主・井上こんさん

いきいきとした素材をおいしい食事に変える台所。そんな魔法のようなスペースを、食や料理にまつわるプロフェッショナルはどうデザインし、
どんな風に使っているのでしょう。そこにある道具や収納、使い方は……?さまざまなプロフェッショナルの台所を巡ります。

Profile

井上こんさん
1986年福岡県生まれ(3歳から千葉県育ち)。明治大学農学部を中退後、フリーライターの道へ。うどんを中心に食を幅広く取材していたが、うどん愛をこじらせてしまい、2019年5月に松陰神社前で間借り営業にて「松ト麦」の週1回(月曜日)営業をスタートする。その後、現在の店舗で2021年1月から固定店舗での営業を開始。2024年5月現在週2回程度の営業。昨今ではラーメン業界も含めた製麺業界から小麦のスペシャリストとして知見を求められるなど、活動の幅を広げている。

「私、家の真ん中に台所がある間取りが好きなんです。玄関から上がったところに、ダイニングキッチンがあって、家族それぞれの部屋にはそこを通っていく。ずっとそういう家で暮らしたかったんです」

井上さんがいまの台所を手に入れたのは、2018年のこと。当時はまだうどん店の開業など考えもしていなかった。ライターとして、主にうどんをテーマに取材・執筆をする日常を過ごしていたが、この年続けざまに転機が訪れた。

まず、コツコツと書き溜めたブログ「うどん手帖」が書籍という形になった。そして結婚。その結婚に伴う転居に際して、いちから台所をリノベーションすることができた。

「家の中心に台所を得て、その台所でうどんを打てるようになった。それはその後の私にとって、大きなできごとでした」

暮らしの中心に台所のある住まいを手に入れて、日々の暮らしとライフワーク、どちらにも土台ができた。そのことが、その後の人生を動かすことになっていく。

井上さんが育った実家は玄関を上がったら、リビング・ダイニングを通らないと自室には行けない造りだった。学校から帰るとまずは台所。部屋に上がる前に、おやつをつまんで家族と話をする。

夕飯どきになると、おいしそうな食事の匂いが台所から家族の部屋へと漂ってくる。台所に立ち上る「おいしそう」を、ともに暮らす家族と感じる。井上さんにとって、台所は家族と気持ちを通わせる場だった。

安息の台所を手に入れた翌2019年、さらなる転機があった。

「この頃から自分で打ったうどんの試食イベントをやるようになったんです。直接反応が得られる面白さを知った頃、Twitter(現X)に『間借りスナックの週イチ店主募集』という告知が流れてきたんです」

見た瞬間、その告知の主にDM(ダイレクトメッセージ)してしまっていた。事後報告だった夫も快く背中を押してくれた。以降、日本酒やワインを保管するはずだったワインセラーは、粉や生地を温度管理するための保管庫となった。

「コシヒカリとササニシキが違うように、小麦だって品種によって粘りや弾力、味わいは異なります。もっと言えば、同じ品種でも挽き方や打ち方でうどんの味わいは変わります。だから週1回の間借り営業でも粉のストックがどんどん増えてしまって……」

間借り営業を続けるうちに、自宅で保管する小麦粉は100kgを超えた。1年と少しで間借り営業を卒業し、2021年1月からは駒沢で物件を借りて飲食店の営業を開始した。

営業は順調だった。単一品種の小麦粉を手打ちする“シングルオリジンうどん”が評判を呼び、麺や小麦が好きな客も着実に増えていった。ところが2022年9月、井上さんを病気が襲った。「ギランバレー症候群」。末梢神経の障害による病気で、発症は10万人に1~2人とされる。手に力は入らず、足はしびれと痛みで立つのがやっと。もちろんうどんを打つなどもってのほか。店は完全休業にして、治療に専念する日々が続いた。

それでも彼女には家の台所があった。

「よたよたした足取りで病院から帰ってきても、台所に座ると心からホッとしたし、簡単なつまみで晩酌だってできました(笑)。台所が暮らしの真ん中にある家で本当によかった」

発症から1年以上が経ったが、いまも手足のしびれなど後遺症はある。それでも店に明かりを灯す日は、少しずつ増えている。井上さんはこの台所を通じて外の世界へと歩を進め、弾むような気持ちでこの台所へと帰ってくる。

手ぬぐい
コロナ禍で酒を出せなかった当時のうどん店をサポートするため、井上さんが「店舗で物販できるものを」と考案した「すする。ぬぐう。手ぬぐいプロジェクト」手ぬぐい。全国32社の製粉メーカーのロゴの入ったデザイン手ぬぐいを、各店で「かけうどん1杯以上の利益」が出るように設計した。
どんぶり
自宅で使うどんぶりはうどん用ではなく、ラーメン用が多い。開店や周年などの記念で配られたどんぶりも。小麦の世界を突き詰めるうちに、井上さんのまわりにはうどんやラーメンといった垣根を越えた製麺ネットワークができ、最近は休日にうどん店だけでなく、ラーメン店へ試食に赴くことも増えた。
全国で集めた醤油
店のうどんつゆも、「まだベターなものがあるのでは」と常にアップデートを続けていて、地方に行くと未知なる醤油を必ず入手する。「とりわけ100mLのボトルの子は10本くらいすぐ連れ帰っちゃいます」。試作用として使うことが多い。

家電のデザイナーが
プロの台所から学んだこと

三菱電機統合デザイン研究所吉田傑
玄関を抜けるとアイランドキッチンがお出迎え。あまり見たことがないレイアウトに新鮮さを覚えながらも、落ち着いた内装からは居心地の良さも感じていました。ふだん料理を作らないときも台所に立つことが多いとのことでしたが、台所の隅に飾られている小麦のドライフラワーなど、井上さんが大切にしていることが随所に垣間見え、台所がまるで井上さんの部屋のような印象を抱きました。
うどんや小麦についてまとめたノートを台所に広げながら話す姿も馴染んでいて、台所はもっと自由に使うことができる場所だと気づかされます。
私たちは使う人の暮らしを想像しながら、時には新しさ、時には空間との調和を求めてデザインを考えますが、井上さんの台所におじゃまして、使う人の考え方や大切にしていることに寄り添えるデザインを心がけたいと改めて思いました。

構成・文/松浦達也 撮影/吉澤健太
2024.06.03