第七回“実の用”を考え抜くと
台所も“用の美”として輝く料理家・重信初江さん
いきいきとした素材をおいしい食事に変える台所。そんな魔法のようなスペースを、食や料理にまつわるプロフェッショナルはどうデザインし、
どんな風に使っているのでしょう。そこにある道具や収納、使い方は……?さまざまなプロフェッショナルの台所を巡ります。
- 重信初江(しげのぶはつえ)さん
- 東京都生まれ。服部栄養専門学校調理師科を卒業後、織田調理師専門学校での助手、料理家のアシスタントなどを経て2004年に独立。「どこにでもある素材で、簡単においしく」が信条。日本食を土台に、韓国料理、フランス料理など各国の料理に精通する。新刊『罪悪感ゼロつまみ―お酒とおいしいものを愛する料理家が全力で考えた!』(主婦と生活社)ほか著書多数。
イマドキの「料理家」という肩書きには、いろいろな能力が内包されている。SNSや動画での発信力もひとつのスキルだし、強いメニュー名や極端に単純化されたレシピなど、"バズる"ことを重視するメディアも多い。
しかし本来、“料理家”にとってもっとも大切なのは「おいしい」レシピを作ること。家庭に向けて提案するなら「手に入りやすい素材」を「かんたんに」という要素も欠かせない。料理家として最前線で20年。重信初江さんは長く実用に耐えられる、シンプルで骨太な料理を提案し続けてきた。
料理同様に台所も、実用に焦点を当てている。「うちの台所、“見せる”ような作りになっていないんです」。雑誌などのメディアに掲載される“主役”はあくまでレシピだから、インテリアとしての食器や鍋などは必要ない。むしろすっきりと隠せることのほうが優先順位は高い。
調理師学校の助手や料理家のアシスタントを経て、独立したのは2004年のことだった。最初に選んだ場所は、23区のなかではのどかな住宅街。実家の近くでもあったが、少し無理をした。
「知り合いの料理写真家に『料理家は無理をしてでも都内に住め』と言われたんです」
20年前といえばいまほどではなくとも、出版不況が謳われていた頃。キッチンスタジオより安く上がり、スタジオを探す手間も不要な撮影できるキッチン持ちというのは、少なくとも独立したばかりの料理家としては発注されやすい条件のひとつだった。
もっとも当時の台所はさほど広くはなかった。撮影がしやすいよう、カウンターキッチンのようにもなるアイランド型の作業台兼食器棚を特注し、その天面は人工石で熱い鍋などを置くことができるようにしつらえた。そうした数々の工夫と努力の甲斐あって、仕事は少しずつ、それでも順調に増えていった。
それから14年が経った2018年、急な立ち退きが決まって、重信さんはまたも近所の物件への引っ越しを余儀なくされた。
「自ら望んだ引っ越しではなかったけれど、せっかく引っ越すなら少しでも仕事の環境を整えようと考えました。新しい物件の条件は、写真が撮りやすいような自然光が窓から入ること。あとは高齢の母親が一人暮らしをしている、実家とそれなりに近いことでした。じっくり探す時間がなかったので、結局、また少し高めの物件になってしまいましたけど、いまではとても気に入っています」
急な引っ越しということもあってじっくり選ぶような時間はなかったが、住まいを兼ねたキッチンスタジオとしてはいい物件に巡り合うことができた。契約したのは、想定よりも広く、部屋数も多い物件。もっとも結果として、使わない鍋などを置いておく倉庫代わりの部屋ができて、台所もよりすっきり使えるようになった。
「この作業台兼食器棚は平面でちょうど風呂敷1枚分。内見時に風呂敷を持っていって敷いてシミュレーションするんです。冷蔵庫も各辺のサイズを測って同サイズの紙を持っていきます。一度決めた場所はほとんど動かしません。だから最初にレイアウトを考えるときには、棚の基本的な位置は綿密に考えます」
家庭用としては最大サイズの冷蔵庫が2台に普通の食器棚、それに作業台兼食器棚もある。撮影となればスタイリストが持参した皿を置く台も必要になる。写真撮影時に照明を立てる場所も確保したい。編集者やディレクター、アシスタントやカメラマンやライターの動線だって考えなければならない。
台所とダイニングという、人が動く場所が仕事場だからさまざまな動線が入り交じる。仕事の現場では、もともとなかった機材や皿などが増える前提で、最初から棚やテーブルを配置する。曖昧で混沌とした現場でも機能するよう、のりしろを想定しながら基本設計を固める。
一方で、道具や調味料などの収納場所は使う用途と頻度で明確に決まる。
「コンロ脇の備え付けの作業台の下には、ボウルやザルなど使用頻度の高いものが入っていて、コンロ下にはフライパン。よく使うコンロと流しの間の作業台の下の引き出しにはヘラやお玉、計量用のスプーン。一番下の引き出しには、醤油などのもっとも使用頻度の高い調味料が入っています。例えば酢なら米酢はここですが、ワインビネガーなど仕事での使用頻度の少ないお酢は3つ奥、流しの奥の扉です」
フランスやタイ、韓国など旅先で手に入れた道具や食器も多い。その土地の食文化に沿った最適な道具は現地でしか手に入らないし、世界的に販売されている保存容器でも国や地域ごとに型や使い勝手が少しずつ異なるものもある。現地の料理に合い、手に合い、気が合う一期一会を連れ帰ることも少なくない。
「韓国の焼酎のコップが好きで、向こうの食堂に行くとお店の人に直談判してもらってきたりするんです。仕事で使う機会はそんなに多くないけれど、使い勝手もいいし、韓国料理の企画のときなどはいい脇役になってくれたりもするんです」
“用の美”という言葉がある。暮らしのなかで使われる生活道具のための工芸品≒民藝品などの美しさに対して使われる言葉だ。実用を重視するライフスタイルの中に“用の美”はある。綿密に計算され、使い込まれた重信さんの台所はそれぞれの道具に象徴される世界の食文化を取り込み、現代日本人がごく自然に“用の美”と感じる穏やかな輝きを放っている。
- アイランド型作業台
- 天板が人造大理石で下は目隠しにもなる両開きの食器棚。独立したときに特注して、以来20年間使い続けている。
- リーズナブルな片手鍋
- もっともよく使うのはニトリや無印良品のリーズナブルな片手鍋。ステンレスの重層加工鍋も好み。フランス産に多い鋳鉄の鍋は、重いこともありあまり使わない。
- すり鉢各種
- 左側の黒っぽい鉢がすった胡麻をドレッシングなどにそのまま展開できる片口すり鉢。そこから時計回りにスパイスやハーブをそのままつぶせる、タイのクロックヒン。赤い樹脂製のにんにくすり鉢は韓国製。下の黒い陶器は、少量の黒胡椒や花椒を潰す作家の一点物。上下で分離していて、水滴型に見えるものは乳棒。
家電のデザイナーが
プロの台所から学んだこと
- 三菱電機統合デザイン研究所三井進平
- 重信初江さんの台所に、なんとも言えない心地よさを感じました。機能や効率は重視しながらも、ところどころに旅のブックマークとでも言えるような、ふくよかな物語が隠れているのです。タイで手に入れた乳鉢や、韓国の食堂で交渉して持ち帰ったという焼酎のコップなど、いつも前面に出るわけではないアイテムにも、重信さんの台所にとって欠かせないストーリーが込められていました。旅で出会った道具や調理法のお話を伺うだけで食欲が湧き、そして満たされるような快い感覚がありました。調理やメニュー提案といったふだんのお仕事だけではない部分にも、その人ならではの色がにじむということを勉強させていただきました。
構成・文/松浦達也 撮影/吉澤健太
2024.07.01