前回に引き続き、雑誌(※)で行ったロシア取材のお話。ソユーズロケットの打ち上げは今回の旅前半のハイライトだったが、最大の収穫は旅の後半にやってきた。それはロシア唯一の宇宙服メーカーで、一人のエンジニアに出会ったことだ。彼の名はボリス・ミハイロフ。ガガーリン時代以前からすべての宇宙服の開発に携わり、77歳の今も現役で宇宙服の開発を続けるエンジニア。ガガーリンのことも昨日のことのように話し出す、宇宙服だけでなく旧ソ連時代からの宇宙開発の生き字引とも言える人物だ。
ミハイロフが宇宙服のことを話し出すと止まらない。質問をすると嬉々としてさらに演説が始まるのだが、どれも現場にいた人の話だけに臨場感があってどきどきする。たとえばガガーリンの脱出イス。人類初の宇宙飛行を行ったガガーリンは、地球に帰るときに高度7kmからイスごと脱出し、さらに高度5kmでイスから脱出してパラシュートで着地した。宇宙船にソフトに着陸するメカニズムがなかったためだ。だが、人類初の宇宙飛行で何が起こるかは予測不可能。そこで、万が一ガガーリンが気を失っても地球に帰還できるように、イスを切り離す装置、パラシュートが開く装置、海に不時着したときにボートが膨らむ装置など、全部自動で動くように仕掛けておいたのだ。「今のようにコンピューターはなかったので、紙と鉛筆で計算して作ったんですよ」と事も無げに話すのだが、よくこれだけの複雑なミッションが計画通りに運び、ガガーリンが無事に帰ってきたものだと驚いてしまう。
ここでは、ロシアが開発していた月面歩行用の宇宙服「クリーチェット」も見せてくれた。1967年から68年ごろ、ロシアも宇宙飛行士の月面着陸を目ざし開発されたもので、アレクセイ・レオーノフ飛行士が着ることになっていた。ところがロシアの有人月面計画はついに実現されることはなかった。「クリーチェットの開発はすべて終わっていて、いつでも月面に降りる準備はできていたのに本当に残念です」とミハイロフが語る。もしかしたら、この服は月面に降り立っていたかもしれない。そしたらその後の宇宙開発は今とずいぶん違っていた可能性もあるのだ。
古い宇宙服だけでなく、最新の宇宙服も設備も案内してくれた。圧巻は巨大な真空チャンバー。この設備で宇宙の真空状態を模擬し、国際宇宙ステーションに滞在する飛行士が船外活動用宇宙服の訓練を行う。でもそのチャンバー室の横にあったのは、なんと「卓球室」。ちょうど私たちが訪れたときは昼休みで、エンジニア達が卓球に汗を流していた。
この会社、門から入ると優秀社員を表彰する看板がどーんと立てられていたり、卓球室が賑わっていたり、人を大事にしている会社だというのが伝わってくる。メディア取材はこれまでほとんど受け付けたことがないと聞くが、いったん中に入った私たちへのもてなしは手厚かった。最初にお茶やお菓子で歓迎してくれ、見学にも何人も従業員を用意し宇宙服を着るところまで見せてくれた。何より、ミハイロフが私たちにずっと同行してくれたのが最大のもてなしだ。彼は「那覇に行ったことがあるんだよ。展覧会で宇宙服を展示したんだけど、あんまり興味を持ってもらえなくって・・・」と恥ずかしそうに教えてくれた。「また是非日本にきてね!」と別れ際に約束したが、ここでは「人の中に生きる技術」や「人とのつながり」が大事にされているせいか、現場の空気がとてもあたたく感じた。また彼に是非会いたいものだ。
宇宙の取材は非常に興味深かったが、モスクワの街もバブルに沸き刺激的だった。街ゆく女性はブランドの服やバッグに身を包み、道には高級車が走る。各国料理を供するレストランが軒を連ね、どこもはずれなく美味しい。ただし物価が高い! 私たちの通訳リューダさんが5年前に買ったマンションが5倍の価格に高騰したそうだ。彼女は独身ながら、郊外にダーチャ(別荘)を持っていて、週末はそこで友人と畑作業を楽しんだ後にバーニャ(サウナ)で汗を流す。海外旅行にもしばしば出かける。「紅茶にジャムを入れるロシアンティーなんて、おばあちゃんのすることよ」、「今のモスクワっ子は宇宙に興味はありません。宇宙は旧ソ連時代の象徴。ガガーリンの飛んだ日も特にお祝いはしませんよ。」とあっけらかんと話す。古い伝統が息づく一方で、変化する今を楽しむ若者たち。この国は奥深くて、最高に面白い。今度ロシアに行くときには、さらにディープな取材に挑戦してみたい。
※:雑誌「PEN」8月1日号、特集「宇宙へ」。
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