NASAも驚嘆した“宇宙の宅配便”「こうのとり」
—世界に誇る日本の技術が、過熱する宇宙開発市場を勝ち抜く切り札となる②
NASAからの「無謀な要求」
こうのとりは打ち上げられた後、はるか上空で切り離され、自ら軌道を制御しながら高度約400kmを飛行する。そして時速2万8000kmで飛行するISSに自動で接近していかなければならない。
このミッションで、NASAが掲げた安全基準は「ワン・フェイル・オペ、トゥー・フェイル・セーフ」。つまり、1つ故障が起きてもミッションは継続、2つの故障が起きても安全を保てるような設計が要求されたのだ。
補給機であるこうのとりの最重要ミッションは、ISSに接近して物資を届けること。だが、こうのとりは、物資を積むと最大で16トンもの重さになる。万が一その巨大な塊が宇宙飛行士のいるISSに衝突すれば、宇宙空間での大事故に発展してしまう。
近づかなければならないが、何かトラブルがあっても決して接触してはいけない──この2つの目標は、技術的には相反する。
開発初期の段階から現在までこうのとりの開発に携わり、2009年の初号機の打ち上げの際には開発チームの責任者を担当していた塚原克己は、この要求を聞いたときのことを次のように振り返る。
「『無茶なこというなあ』って思いましたね。
たとえていうなら、車を運転してるときに、突然、アクセルもブレーキもハンドルさえも利かない状態になっても、決して事故は起こさずに安全に目的地に行ってほしい、といわれているようなものですから」
「宇宙開発途上国」のエンジニアの意地
それから初号機打ち上げの成功まで、10年を超える長い格闘が始まった。
ISSに近づく軌道の設計や、機器の予備製作などありとあらゆる項目を見直し、さまざまな要素の組み合わせを変えては検証を繰り返し、答えを模索していった。 だが、安全審査のたびに、NASAからは何百点もの改善点を指摘されたという。
この暗中模索の作業のなかで、塚原たちを突き動かしていたものは何だったのだろうか?
「やはり、『日本にも宇宙船を開発する技術があることを、世界に証明する』という使命感に駆られていたのだと思います。 NASAからは、常に『宇宙開発途上国の日本が、本当にできるのか?』という不信の目で見られていましたから。
日本にもちゃんとした宇宙船が造れるのだということを、米国を代表するNASAに、そして世界に認めさせたいというエンジニアの意地が、我々の主たるモチベーションだったんです」
ここであきらめれば、日本の宇宙開発の負けを認めることになる。そんなわけにはいかない──絶対に最後までやりきるという思いが、チームのなかに芽生えていた。
この気合いが、NASAとの信頼関係の構築にもつながった。初号機の完成までには10年以上もの月日を要したが、専門性の高い内容のため、三菱電機もNASAも開発メンバーをほとんど変更しなかった。
長い共同作業のなかで、最初はちゃんとできるのかと色眼鏡で見てきた相手とも、ファーストネームで呼び合う仲になり、戦友のような絆が生まれた。NASAとの間にできた深い結びつきも、こうのとりのプロジェクトが三菱電機にもたらした大きな財産だといえる。
「世界が賞賛した技術」の誕生
こうのとりで課せられた安全基準を達成するのに一番単純な方法は、何か問題が発生したときにすぐ同じバックアップ機能を作動させること、つまり冗長系を複数持たせることだった。
だが、補給機であるこうのとりは少しでも多くの物資を運ばなければならないため、本体の軽量化が重要な課題になっていた。つまり、いたずらに冗長系が増やせる設計ではなかったのだ。とくにランデブーに必要な機器は、非常に複雑でかつ重い。
そこで、冗長系の構成にひと手間加えた。
高度な機能の冗長系をいたずらに増やすのではなく、最後の砦の部分を「ISSへの接近時にまったく制御が利かなくなっても絶対にぶつからずに遠くへ逃げる」というシンプルなものにすることで、軽量化しつつ安全な機体を設計することに成功したのだ。
また、それまでのランデブーでは、機体は目標となるISSと同じ高度上で前方もしくは後方から目標物に近づく方法をとっていた。
だが、こうのとりは下からISSに接近する。
目標となるISSに下から近づくと常に高度の差があるので、何か問題が発生したときも重力差のおかげで逃げやすくなる。 また、こうのとりは直接ドッキングせず、ISSの真下10mに接近して静止する。それを宇宙飛行士がロボットアームで掴むことによって、衝突のリスクを最小限に抑えた。
三菱電機は冗長性の実現方法だけでなく、軌道やドッキングの方法を含めて、徹底的に安全な飛行方法を確立したのだ。
そして、2009年9月11日、ついにこうのとりの初号機が宇宙へ向けて打ち上げられた。