世界一美しい発射場から、世界一のロケットを。
種子島宇宙センター藤田所長に聞く
9月25日、H-IIBロケット8号機が、夜空を一瞬で昼に変え、轟音と共に飛び立った。搭載していた宇宙ステーション補給機「こうのとり」8号機は軌道に乗り、打ち上げは成功。当初予定された9月11日の打ち上げは、移動発射台で火災が発生するという前代未聞の事態で中止となったものの、迅速な原因究明と対策によって予定期間内に打ち上げることができた。H-IIAロケットと合わせると42機連続打ち上げ成功となる。
種子島宇宙センターから初のロケットが飛び立ったのは1968年9月17日。半世紀が経過し、2020年度には新しいロケットH3が飛び立とうとしている。種子島の歴史と未来、ロケットを打ち上げる難しさと醍醐味について、JAXA種子島宇宙センター藤田猛所長にお聞きしました(インタビュー日、9月10日)。
半世紀の歴史の積み重ねの上に今がある
- —打ち上げ前日のお忙しい時に、ありがとうございます。明日朝6時半ごろ打ち上げ予定で、今は前日、9月10日の15時半です。どういうご心境でしょうか。
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藤田所長(以下、藤田):
今回は所長になって15回目の打ち上げですが、だんだん緊張感が高まってくる。今ぐらいが気持ちが不安になる頃ですね。打ち上げ約9時間半前から燃料を充填し、機体の点検が始まると手順に基づいて進むのですが、今はそれに備えて休憩のタイミングなんです。色々なことを考えてしまうわけですよ。
- —あそこがどうだろう、とか?
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藤田:
そうそう。もしこんなことが起こったら、どうすべきかとか。ちょっと心理的に不安定な時間ですね。
- —それだけロケット打ち上げが難しいということでしょうか?
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藤田:
ひとたび地上を離れると、人間ができることはただ一つ。指令破壊を送るだけなんです。完璧な形で打ち上げないといけない。そういう意味では、他にはあまりない難しさかもしれません。
- —ところで、左腕にたくさんあるものが気になります。見せて頂いていいですか?
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藤田:
これは何かあった時に責任をとる、責任者のしるしですね。
- —たくさんありますね・・・。
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藤田:
高圧ガス(保安統括者)とか冷凍とか。
- —お守りもたくさんありますね。
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藤田:
一つは埼玉県の秩父吉田にある椋(むく)神社のお守りです。農民ロケットとも言われる龍勢ロケットを椋神社に奉納する神事が、400年続いていると言われます。ロケット失敗が続いた時に吉田町の町長さんがお守りを当センターに送って下さって、それから成功が続いたのです。昨年、龍勢ロケットが国の重要無形民俗文化財に指定された時に椋神社に伺って、買ってきました。それから、記者さんにもらった滋賀県の飛行観音のお守り。
- —思いがこもったお守りばかりなんですね。
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藤田:
人事を尽くして天命を待つ。最後は神様にお願いします。天気など自分たちでコントロールできないことがありますからね。毎回打ち上げ前になると、始業前に三社参りに行く職員もいます。種子島宇宙センターの入り口にある恵比寿神社、それから宝満神社と河内神社に行くのが習わしになっています。
- —宇宙センターの中に神社があるんですね。
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藤田:
今の発射台があるあたりは、大崎集落という江戸時代からの集落があった場所です。発射台建設のために、昭和46年3月、集落の13戸45名の方々に集団移転して頂きました。その集落にあった恵比寿神社の祠を、宇宙センターの入り口に移転したんです。
- —そういう歴史があったのですね。どんな場所だったのでしょうか。
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藤田:
このあたりは気候が温暖だし海の近くでもあり、半農半漁の豊かな場所だったと聞いています。
- —そういえば、以前種子島でタクシーに乗った時、年配の運転手さんから、発射場を作る時は何が起こるかわからないから反対の声もあったと聞きました。
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藤田:
最初はセンター内を走る町道の移譲などに、南種子町議会が反対していました。約2年間粘って交渉し、昭和51年の議会で賛成と反対が9対9になって、当時の船川太議長に判断が委ねられたんです。議長が賛成を宣言して、最終的に宇宙センターに移譲することが決議されました。戦後でもあり、ロケットの発射基地は軍事に繋がるんじゃないかと心配される方もいらっしゃったんでしょうね。
- —なるほど。宇宙センターは今年で何年ぐらい経つのですか?
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藤田:
昨年2018年は、最初のロケットが打ち上げられてからちょうど50年でした。1968年9月17日にSBIIAロケットが打ち上げられたんです。直径20センチぐらい、長さも3mに満たない一段式の固体ロケットが、ひゅっと上がった。高さも60kmぐらいでした。竹崎射点に錆の目立つランチャー(発射台)がありますが、あそこが宇宙センターの発祥の地ですね。
- —なるほど。半世紀も経つと海辺に立つ射場は設備の維持が大変ではないですか?
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藤田:
ロケットが大型化するにつれ射点も移り変わっていったので、ずっと同じ場所で打ち上げたわけではありませんが、射点や関連設備には30年選手、40年選手があるので大変です。塩害もあります。財政も厳しいですから、優先順位をつけて対応しています。
H3ロケットに向けて
- —2020年度には新しいH3ロケットの試験機を打ち上げますね。宇宙センターの変化は?
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藤田:
外観上はそれほど変わりません。H3になると、打ち上げ頻度が年6回以上。打ち上げ費用を半分にして回数を増やします。打ち上げ費用が半分になるということは、人手を減らすという事。今は結構手作りの部分も多くて、発射場でも1か月半ぐらいかかっている準備期間を20日に短縮しないといけない。
- —具体的にはH3の射点はどこに?
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藤田:
H-IIBロケットが次の9号機でフェーズアウトしてH3にバトンタッチします。H-IIBの射点を若干改修して使います。整備組み立て棟(VAB)も変えず、移動発射台だけ新しくしました。
- —ブロックハウス(発射管制棟)は?
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藤田:
それは一番大きく変わったところです。今はロケットから500mぐらいの地下12mの場所に100人ぐらいの人が入って、打ち上げ前の管制作業をしています。燃料を入れ始めると、基本的には安全確保上、外に出られない。
- —じゃあ、食事も中で?
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藤田:
はい。お弁当やお茶を持って入って十数時間。お医者さんも一人入っています。そのブロックハウスを射点から3kmの警戒区域の外に出します。総合司令棟(RCC)の隣に建屋ができています。
- —ロケットの近くでなくてもいいということですか?
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藤田:
1960~70年代は通信や電気の技術が脆弱で、ケーブルを這わせたりしていましたが今は技術が発達していますから、ロケットからの距離は関係ない。地球の反対側にいても同じです。異常が起こってもロケットには近づけませんから。よく「決死隊」などと言われますが、許可されたことはありません(笑)
- —決死隊ってなんですか?
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藤田:
ロケットの調子が悪いと「近くまで見に行きたい」と昔はMHIさんのエンジニアから言われたことがあるようです。
- —なるほど(笑)。ブロックハウスの呼び方は変わるんですか?
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藤田:
ブロックハウスからLCC(Launch Control Center)になります。100人以上が十数時間、缶詰になって作業をしていましたが、H3ロケットが定常的になれば30人程度になって、現代的な9時-5時のロケットになる。
種子島の魅力とは?
- —9時-5時のロケット、それはいいですね。藤田所長はいつから今の任務に?
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藤田:
2015年の6月から所長を務めています。実は種子島勤務は3回目です。最初は新人で入った時、そのあと課長時代、そして今回は所長として。今年度で定年退職します。
- —ということは、種子島で始まって種子島で終わるわけですね!
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藤田:
はい。縁が深い。嫁さんも種子島の人です。
- —以前と比べて、種子島は変わりましたか?
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藤田:
島そのものの人口は減っていますが、洗練されています。昔はコンビニなんてなかった。それからロケットの打ち上げだけを見に来る人もいませんでした。ここ10年ぐらいかなぁ。喜ばしいことです。町の活性化にも繋がりますし、私たちがやっていることを見てもらえて応援団が増えることは、有難いことだと思っています。
- —種子島宇宙センターは世界一美しい発射場と呼ばれます。特徴や魅力は?
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藤田:
高い打ち上げ成功率を誇りますが、それを支えるのが発射場です。南国特有の青い海、青い空、濃い緑 、白い砂浜。岬の先端に発射点があって、「世界一美しい」と言っても過言ではありません。それにコンパクトで高性能。アメリカのNASAケネディ宇宙センターは種子島全体と同じぐらいの広さがあるんです。
- —え、種子島全体ですか?
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藤田:
はい。一方、ここは9平方kmで種子島の2%。世界一美しくて、世界一コンパクトな発射場が優秀なロケットを支えている。それから歴史です。鉄砲伝来の地ですが、今はロケットという飛び道具をもっている。島の人たちの温かいおもてなしも魅力です。4年前にフランスから衛星メーカーの技術者が、打ち上げ準備で30~40人種子島に来たのですが、南種子町の人が「ロケット音頭」という踊りを一緒になって楽しんだんです。非常になごんでましたね。
- —そんな踊りがあるんですね。
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藤田:
「ロケットどんどん♫」と。8月のお盆前にロケット祭りがあって、「種子島にこんなに人がいたのかな」というぐらい人が集まって練り歩くんです。
ロケットの難しさと醍醐味—全ての人々の想いと共に
- —想い出深い打ち上げはありますか?
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藤田:
あまり思い出したくない打ち上げはあります。2003年11月、H-IIAロケット6号機の打ち上げ。H-IIA、H-IIBで唯一失敗しているロケットです。当時、私は固体ロケット開発担当でブロックハウスにいたのですが、打ち上げ後に電話がかかってきて「固体ロケットが分離できないが、どうなっているんだ」と。しばらくは頭が回りませんでした。思い出したくないけれど、どうしても記憶に強く残っています。
- —完璧に準備をしても、そういう事が起こるんですね。
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藤田:
当時の辛さ、大変さは身に染みています。絶対に完璧でないと打ち上げない。ロケットは何十万点もの部品があって、ちょっとしたことでも失敗につながる可能性が高いですからね。
- —打ち上げ成功を重ねるための工夫は?
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藤田:
今はMHIさんが打ち上げ執行責任者ですから、MHIさんがお答えするのが妥当だと思いますが、課長時代に打ち上げ現場の責任者を担当したときの経験から答えるとすれば、愚直なまでに決められたことをきちんとこなしていくという事だと思います。成功の秘訣はないですよ。前のロケットが成功したからと言って、今号機が必ず成功するとは限らない。毎回、手を抜かないことです。
- —今回、藤田所長は打ち上げ安全監理責任者というお立場ですね、見方は違いますか?
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藤田:
立場と責任が違います。MHIさんが打ち上げたいと言っても安全上ダメならダメと言わないといけない。機体がおかしければ、被害が地上に及ばないように破壊しないといけない。
- —では、思い出したい打ち上げは?
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藤田:
1994年2月4日のH-IIロケット初号機ですね。初の国産液体大型ロケットです。その時もブロックハウスにいましたが、とっても嬉しかったですね。自分たちが作ったロケットが初めて上がった!と。
- —あのロケットはエンジン燃焼試験がなかなかうまくいかず、難産でしたね。
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藤田:
プレッシャーがあったと思います。当時は大変でした。
- —改めて、ロケット開発の面白さや魅力は?
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藤田:
天気がよければ打ち上げ後、青空にものすごいエネルギーと音でバリバリと上がっていくじゃないですか。胸に感動がよぎる瞬間です。地元の協力も含めて、ロケットの打ち上げに尽くしている方の想いも一緒に、飛んでいると思っています。
- —H3ロケットへの期待は?
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藤田:
種子島宇宙センターも含めて、日本のロケット技術の集大成になります。日本のロケット技術で世界一のロケットになって欲しい。コストも信頼性も。
- —世界一のロケットになると思いますか?
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藤田:
思います。日本人の優秀さ、技術力、品質の高さ。最初は米国にロケットを教えてもらったかもしれないが、世界に引けを取らない技術力に向上しています。日本人の勤勉さをいかせば、世界一のロケットになれるのではないかと思っています。
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