和食シリーズ企画第四弾 日本人の食卓―100年の歩みを辿る和食シリーズ企画第四弾 日本人の食卓―100年の歩みを辿る

#04 ― 100年前の洋食篇

「和食」がユネスコの無形文化遺産に登録されてから数年が経ちます。
「このままでは衰退する可能性がある食文化」とされた和食は、あれから歩みを前へと進めることができたのでしょうか。
2021年に創立100周年を迎えた三菱電機は、日本の暮らしとともに歩み続けてきました。
これからも家電メーカーとして日本の食文化に寄り添っていくために、
この100年間の日本人の食卓、そして家電の歩みを振り返り、次なる100年を考えていきます。

和食シリーズ企画第4弾「日本人の食卓 - 100年の歩みを辿る」。第4回のテーマは「100年前の洋食」。100年前と言えば、国内に「洋食」が本格的に上陸してから数十年が経過した頃。当時の洋食はどのようなものだったのでしょうか。現存する最古の西洋料理店で明治初頭の創業以来、日本の洋食を見続けてきた「上野精養軒」に100年前の洋食と日本人の関わりについて伺いました。

ご案内いただいたのは、
上野精養軒総料理長
富田高彦(とみた たかひこ)さん。

1959年福島県南相馬市生まれ。上野精養軒総料理長。1977年に門を叩いて以来、精養軒一筋。トック・ブランシュ国際倶楽部会員、カナルディエ協会会員メートルカナルディエ、オーギュスト・エスコフィエ会員、全日本司厨士協会東京地方本部でも要職を務め、後進の指導にも当たる。

明治時代に進んだ「食の西欧化」。国民の体格の向上を目指し、肉食が奨励されるようになりました。そのとき日本の食文化史に勇躍と登場した「洋食」。いまから100年前の大正時代、庶民の目に「洋食」はどう映っていたのでしょうか。

<上野精養軒の歴史>

明治維新後、政財界からの要望を受けて、岩倉具視の家臣だった北村重威(きたむらしげたけ)が1872(明治5)年、京橋区馬場先門に「築地精養軒ホテル」を開業。同年に起きた銀座大火でいったん消失するも翌年銀座にて再建。その後、欧米視察から帰国した岩倉卿のすすめにより、1876(明治9)年の上野公園開設に伴い、支店として「上野精養軒」がオープン。1923(大正12)年の関東大震災により、築地精養軒ホテルが焼失し、上野精養軒に本店機能を移す。国内に現存する最古の西洋料理店。

庶民には手の届かなかった「洋食」

編集部
上野精養軒は明治のはじめに築地精養軒として創業し、その後上野に本拠を移されました。日本人が初めて「洋食」に触れた150年前から、今回の焦点となる100年前、大正時代の頃までの「洋食と日本人」についてご存じかと思い、本日は伺いました。
富田さん
(以下 敬称略)
ずいぶん昔のことですので記録や資料があるもの、ないものそれぞれありますが(笑)、100年前というと大正時代の初頭~中頃ですよね。当時の記録を見ると「洋食」は一部の政治家や資産家など、上流階級の人が口にできる“ぜいたく食”だったんです。
編集部
まだ庶民がおいそれと口にできるようなものではなかったんですね。
富田
創業から間もない明治時代の精養軒のお客様の顔ぶれを見ると、伊藤博文に岩倉具視といった歴史上の人物もいます。欧米の要人を迎える明治天皇陛下に対して、創業者の北村重威が西洋料理のマナーをご案内差し上げたといった記録もあります。明治の終わり頃から大正時代には、森鴎外、谷崎潤一郎、夏目漱石、太宰治といった文豪のお客様も多かったようです。
編集部
天皇陛下に政財界のトップ……。しかも当時の文豪は現代で言う、人気芸能人のような位置づけですし、さぞかし豪奢な晩餐が……。

総料理長 富田高彦さん

富田
明治の頃のメニューは手書きで、そのレシピもシェフが変わるたびに持ち出してしまうので詳しくはわからないんです。ただ初期の頃は本場の素材も手に入らず、手探りで料理とレシピを作っていったでしょうから大変だったと思います。一般にはなかなか手に入らない素材を使って、慣れない調理の手間もかかる。いまからは考えられないほど高額だったそうです。当時の精養軒のメニューでは、1人1食4円という料金の記録が外務省に残っていたようです。
編集部
現在の金額だといくらくらいになるのでしょう。
富田
だいたい15万円くらいですね。
編集部
それは手が届きません(笑)。

当時の豪華なメニューを再現したもの

富田
特に政界や軍部の人には「世界に引けを取らぬよう、テーブルマナーを勉強しろ」と厳命が下っていて、「精養軒に何回行った」「いくら使った」と報告できるくらい通うのが当たり前だったようです。ただ、伝え聞くところでは、創業店の築地精養軒はホテル業態だったので、比較的リーズナブルなモーニングやランチもやっていてオートミールやオムレツなども出していたようです。英国式の食事が多かったようですね。

上野精養軒や関東大震災で焼失するまでの築地精養軒では、明治末から大正時代にかけては文豪の食事会や飲み会、祝賀会や法事などもよく行われていた。1920(大正9年)には田山花袋、徳田秋聲の生誕50年記念界が築地精養軒にて行われ、芥川龍之介、谷崎潤一郎、菊池寛などが出席。1922(大正11)年には森鴎外の逝去食事会が上野精養軒で行われた。その他も洋行する与謝野鉄幹・晶子の壮行会に帰国歓迎会、太宰治の出版記念会など枚挙にいとまがない。夏目漱石は『三四郎』『行人』の作中に精養軒を登場させている。

「日本の食」を変えた肉と乳製品

編集部
洋食が取り入れられたことで、「日本の食」はどう変わったと思われますか?
富田
素材としてはバターやミルクといった乳製品の登場ですね。素材から料理への変換方式としては、小麦を麺類ではなくパンなどへ展開するという手法のインパクトは大きかったでしょう。調理法としては煮込み料理の一般化ですね。そもそも江戸時代までは、基本的に肉食は禁止されていましたから。牛、豚、鶏のような食肉をじっくり煮込んで柔らかくするというジャンルの料理は文明開化以降に広まったものです。

昔ながらのビーフシチュー

編集部
確かに、それまでの主なタンパク源だった魚は少し加熱するだけで十分柔らかくなるから、そんなに煮込む必要はありませんね。肉食解禁に伴い、乳製品と畜肉が明治から大正、昭和にかけて徐々に普及していった。その過程で調理法の引き出しも増えていき、現代日本の食卓に至る、と。
富田
そうですね。肉は洋食やフランス料理ではソースやスープにも欠かせません。現在の上野精養軒でももっとも大切にしているのは、ドミグラスソースとコンソメスープです。
編集部
「洋食の基本」となるソースとスープですね。
富田
特にドミグラスソースはビーフシチューにステーキ、ハンバーグ、ハヤシライスにオムライスのソースなど、精養軒のほとんどのメニューに関わる命とも言うべきソースです。
編集部
精養軒のレシピの特徴は?
富田
どちらも明治中期以降、レシピは一切変えていません。10日かけて仕込むドミグラスソースは様々な部位の牛肉や野菜を煮込んで濾します。仕上げの2日前には小麦粉とラードを加熱したルウを入れてまた濾す。そうした作業を延々と繰り返します。その過程で濾し網に残ったものが、また次のソースのベースになります。

ドミグラスソースを使ったメニュー

編集部
コンソメはいかがでしょう。
富田
コンソメは門外不出なんですよ。ざっくり申し上げると、牛スネ肉と鶏肉のダブルスープを、本当にイチから作っています。まず最初にチキンスープを引くのに1日、次に牛スネ肉と鶏肉と野菜を足して1日……というように、さまざまな工程を経て4日間かけて、じっくりていねいに味を引き出していきます。

ダブルコンソメスープ

“名人”のレシピを忠実に引き継ぐ

編集部
ドミグラスソースやコンソメのレシピが確立された「明治中期」には、なにか大きな変化があったのですか?
富田
4代目料理長に西尾益吉氏が就任したことですね。西尾氏は築地精養軒入社後に渡仏し、『ホテル・リッツ』で「フランス料理の父」「フランス料理の王」とまで呼ばれたオーギュスト・エスコフィエに師事し、明治中期に最先端のフランス料理を精養軒に持ち帰りました。精養軒の味を決め、「本物の西洋料理を出す店」だという認知を得たのが、4代目料理長の西尾氏。そしてその評価を確固たるものにしたのが、5代目で名人と言われた鈴本敏雄氏ですね。文人に愛された100年前の大正時代はこの2人が料理長だった頃です。
編集部
その評判は文豪たちの傾倒ぶりを例に挙げるまでもなく、ものすごかったそうですね。詩人の中原中也も自身のエッセイで「精養軒は美味いのであり、おふくろのオムレツは不美味いのだ」と記しています。
富田
精養軒で修行した料理人が帝国ホテルの立ち上げに関わったり、“天皇陛下の料理番”としても知られる秋山徳蔵氏や中島伝次郎氏などを輩出します。当時、本流の西洋料理は、精養軒か外国人居留地出身のコックしか身につけられなかったとも伝えられています。
編集部
150年前の文明開化の当時、牛肉食なども忌避されたと聞いています。それから50年が経った100年前、「西洋料理」に対する反発のようなムードはもうあまりなかったのでしょうか。
富田
一部には色濃く残っていたと思います。100年前と言えば第一次世界大戦が終わった頃。食生活で言えば、カレーやフライ、トンカツ、コロッケなどが人気を博した時代ですが、同時にどこかに違和感や抵抗感も抱えながら徐々にライフスタイル全般も西欧化が進んでいった。100年前はそんな時代だったのではないでしょうか。

ミックスフライ

編集部
本日は貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました。ちなみに、ドミグラスソースは難しいと思いますが、家庭でもちょっと頑張れば作れる本格的な洋食レシピなどを教えていただけないでしょうか?
富田
確かにソースをご家庭で10日煮込むのは無理でしょう(笑)。では、比較的簡単に手に入る食材を使って、少し手間を掛ければ作れる煮込み料理をお教えしましょう。 ※次回のレシピ篇でご紹介します

日本人にライフスタイルの変化を促したのは第一次世界大戦と第二次世界大戦の間、1923(大正12)年に起きた関東大震災だと言われる。建物や生活インフラを再建するなか、全世界から義援金のほか救援物資も届けられ、そこにはコーンビーフを始めとした缶詰やバター、クラッカーなどの保存の効く食べ物や洋服なども含まれていた。震災をきっかけとして、洋食の大衆化が一気に進み、外食への機運も高まる。また震災時に、動きにくい和服が避難の障害になったことなども、洋装化を後押しする一因となったとも言われる。

参考文献
『銀座百点』(銀座百店会)、『赤主空拳市井奮闘記』(実業之日本社)、『外国義捐金品一覧表』(外務省通商局)ほか

今では当たり前のように食卓を彩る洋食は、100年前は庶民には手の届かない高級料理でした。
次回は、富田さんに教えて頂いた、ご家庭でもちょっと背伸びすれば作れる本格洋食煮込み料理を、
三菱電機の最新調理家電を使用してご紹介します。

取材・文/松浦達也 撮影/落合星文 写真提供/上野精養軒
2019.01.11

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