#16 ― 大衆“和”食の王様「丼」篇
「和食」がユネスコの無形文化遺産に登録されてから数年が経ちます。
「このままでは衰退する可能性がある食文化」とされた和食は、あれから歩みを前へと進めることができたのでしょうか。
2021年に創立100周年を迎えた三菱電機は、日本の暮らしとともに歩み続けてきました。
これからも家電メーカーとして日本の食文化に寄り添っていくために、
この100年間の日本人の食卓、そして家電の歩みを振り返り、次なる100年を考えていきます。
和食シリーズ第4弾「日本人の食卓―100年の歩みを辿る」の第16回のテーマは、大衆“和”食の王様「丼」を取り上げます。日本人に馴染み深い「丼」の、100年前の姿とは? そもそも、いつ頃登場し、どのように大衆食の王様とも言うべきポジションに駆け上っていったのでしょうか。知っているようで、あまり知られていない「丼」のお話。うな丼、天丼、親子丼、かつ丼、牛丼……。みんな大好きな「丼」の秘密に迫ります。
ご案内いただいたのは、
飯野亮一さん
食文化史研究家。江戸時代を中心に近世・近代の庶民の食文化に造詣が深い。自身も日本酒や大衆割烹など、古き良き和の食文化を色濃く残す庶民食を愛する。
『天丼 かつ丼 牛丼 うな丼 親子丼』、『居酒屋の誕生』、『すし てんぷら そば うなぎ』(ちくま学芸文庫)ほか著書共著多数。服部栄養専門学校理事・講師。
江戸が「白米の都市」だったから丼は生まれ、進化した
- 編集部
- 現代では「丼」というと庶民食の代表であり、手軽な外食なのはもちろん、家庭においてもさまざまな具や料理をご飯に乗せるだけで成立する料理として人気です。今から100年前にも、既に「丼」は存在していたと思うのですが、そもそも「丼」料理はいつ頃、どのような形で生まれ、今に至っている料理なのでしょうか。
- 飯野さん
(以下 敬称略) - ご飯の上におかずや料理がのった「どんぶり物」という料理は江戸で生まれ、発展した料理なんです。その背景には「白飯」の人気の高さがありました。もともと江戸時代の幕府や大名は農民から徴収した年貢米が財源で年貢米の多くは換金のため、江戸のような大都市に流入していました。江戸時代の精米店である「春米屋(つきごめや)」は江戸中期の延享元年(1744年)には2044軒にも達していました。当時の人口と照らし合わせると、人口一人あたりの軒数は現代のコンビニの4倍近くもあったことになります。
- 編集部
- それほどの白飯人気が背景にあったからこそ、どんぶり物の人気が高まったわけですね。
- 飯野
- 意外に思われるかもしれませんが、料理としてのどんぶり物の歴史はまだ200年程度。最初の丼ものは19世紀初頭、江戸時代の文化年間(1804-1818)頃に登場したうなぎ飯だと言われています。文化年間、うなぎ好きだった芝居小屋のスポンサーが焼きたてのうなぎが冷めないよう、フタをした丼飯の間に蒲焼を挟んで芝居小屋に届けさせたのがきっかけになって、うなぎ飯が売り出されました。
- 編集部
- 白飯とうなぎの蒲焼きの相性のよさは、どんぶり物のなかでも傑出しています。
うなぎの蒲焼き(日本橋いづもや)
- 飯野
- うなぎの蒲焼もそれまでも江戸っ子には人気の品でした。元禄時代(1688-1704)には江戸の町にうなぎを売る店があり、まもなくうなぎ屋が生まれ、宝暦年間(1751-1764)になるとうなぎ屋は「江戸前大蒲焼」を看板にして蒲焼を売り始めました。そして安永年間(1772-1781)には「付けめしあり」という看板とともにうなぎと白飯のセットが人気になり、19世紀のうなぎ飯へとつながっていくわけです。
「丼」という名前は明治以降に定着した
- 編集部
- 「うなぎ飯」の容器は大きな丼だったと伺っています。見た目にも丼のインパクトは大きそうですが、それでもまだ「丼」という名称は出てきません。
- 飯野
- そもそも「めし」という呼び方自体、当時非常に訴求力の高い呼称だったと考えられます。おっしゃるように「うなぎ飯」からも「めし」という呼称が外れていません。「めし」とつければ売れる。江戸時代はまだ、そうした商慣習から抜けられなかったのかもしれません。
- 編集部
- となると「丼」という名称が登場するのは……?
- 飯野
- 大きなターニングポイントはいまから百数十年前の天丼です。明治初頭頃神田にあった「仲野」という店が「明治7、8年」(1874、1875年)頃に「天麩羅を丼になすことを発明」したとあります。この「仲野」は当時、天丼を一杯7銭と、当時のうなぎ飯の3分の1くらいの値段で売って、とても繁盛しました。
- 編集部
- なるほど。では今から100年前には、いわゆる「丼」は既に現代と同じような姿で存在していて、しかも人気を集めていたと考えられるわけですね。
そしてこの天丼がどんぶり物の旗手として、みるみるうちに東京市中の人々を魅了していく。
江戸中期の1700年代に屋台で提供されるようになった天ぷらは、江戸の後期にはそばの具として天ぷらそばに採用され、天ぷら茶漬けも出現するほどの人気だった。まだ油脂の強い揚げ物に慣れていない江戸っ子は、そば、茶漬けといったさっぱりしたメニューから徐々に天ぷらを組み入れていった。
そうして江戸市中に天ぷらの屋台がお目見えしてから100年以上が経った明治時代、すっかり油脂にも慣れきった江戸っ子たちは、天ぷらという揚げ物を甘辛いタレで軽く煮た天丼の濃厚な味わいを楽しむようになっていた。
- 飯野
- 明治34(1901)年頃になると天ぷら店で「普通は天麩羅御膳・天丼」(「東京風俗志」)を注文するようになります。名前も良かったんでしょう。丼に乗せるという調理法からすると、「天ぷら飯」となりそうですが、どうにも「旨そう!」な感じもしませんし、語呂もいまひとつ。「天丼」は名前からして旨そうで、勢いも強さもある。
- 実際、天丼と親子丼が世の中のどんぶり物ブームを後押しした面もあるように思います。明治38(1905)年の「月刊食道楽」では天丼、鰻丼、親子丼を併記して「誰でも知っている」と紹介されています。明治の中期・後期頃から「丼」という名称は一般化していったのです。
昔の暮らしと食を知る資料と蔵書
その過程で決定的な役割を果たしたのがそば店。明治の終わりから大正時代にかけて、そば店で丼飯を出すようになり、その象徴的なメニューが天丼と親子丼だったという。
「大正元年、新宿武蔵野館裏の船橋屋で、天丼と親子丼とを売り出したのが、そもそもの初まりで、当時、新宿の船橋屋は飯屋になつたと軽蔑する同業者もずいぶんあつたものだ」(「食行脚」(大正14年))
「二、三年以来蕎麦屋で天丼、親子丼を兼業にする家が多くなった。(中略)種物につかふ天ぷら、鳥、玉子が共通に出来る」(雑誌「風俗」(大正6年6月1日号)
「丼」は大衆食文化が生んだ和食の集合知の結晶
- 編集部
- 日本の丼の基礎は天丼が先鞭をつけ、親子丼が後押しした。その変化の勢いは、長く「うなぎ飯」という呼称で定着していた料理を「うな丼」という呼び名に変えてしまうほどの勢いがあった。それがちょうどいまから100年ほど前のことだった、と。
- 飯野
- その頃からどんぶり物がどんどん多様化していくようになります。かつ丼の誕生は諸説ありますが、大正時代までに考案されていたのは間違いないでしょう。当時早稲田にあった「ヨーロッパ軒(後に福井に移転)」説は大正2年、早稲田のそば店「三朝庵」の卵とじかつ丼は大正7年、早稲田高等学院の学生が大正10年に考案したという説もあります。
- 編集部
- そもそも“かつ”という食べ物自体、日本で普及したのは明治期に入ってからですよね。卵とじかつ丼などは明治の終わり頃から大正にかけて人気になった「とんかつ」に卵でとじる、親子丼や開花丼の手法を応用したとも考えられます。
- 飯野
- ご飯に“アタマ”を乗せる、調理法としてのすそ野が一気に広がったのがちょうど100年ほど前のことです。一方、呼称はこの頃に「丼」へと大きく舵が切られています。明治時代から数十年に渡り、長く牛煮込みのぶっかけ飯は「牛飯」と呼ばれてきましたが、大正12(1923)年に起きた関東大震災後まもない頃のスケッチ集には三十数枚の「牛飯」「牛めし」の看板に混じって、7枚の「牛丼」と描かれた看板が確認できます。関東大震災後の復興食は、私たちにとってなじみのある「丼」へと呼称を変えていきました。
- 編集部
- およそ100年前に、それまで「うなぎ飯」「牛めし」と呼ばれていたものが「牛丼」「うな丼」という呼称へと切り替わるポイントがあった。呼称の切り替わりに象徴される、食文化の変化は何か見いだせるでしょうか。
- 飯野
- そうですね……。例えば室町時代の「芳飯」という料理は「丼の原型」と言われたりもするのですが、実際には薬味のような様々な具材を切って、ご飯にかけてそこに汁を注ぐという料理だったようなんです。対して、江戸時代の「うなぎ飯」以降、天丼などは、単体として成立した料理だったものをご飯に乗せ、融合させるという進化をとげています。
- 編集部
- さらにその後、明治・大正期になって親子丼やかつ丼など、それまで一般的には使われていなかった素材や新しい調理法が導入されました。
- 飯野
- それすらも「丼」に取り込んでしまうのが、どんぶり物の奥深さを表しているのではないでしょうか。極論すればすべての素材や料理は「丼」化することで和食になってしまう。明治時代に入ってきた肉食文化さえ、牛丼、かつ丼、親子丼という形でしたたかに和食に取り込んでしまいました。「丼」は和食の可能性を広げてきた料理であり、発明です。現代でも、ビーガンやグルテンフリー食を志向される方向けの新たな丼をよく見掛けます。ご飯とおかずを上手に結びつける和食の力強い様式――。丼は日本の大衆食文化が生み出した、和食の集合知の結晶とも言える存在なのです。
米という素材、醤油という調味料、鰹節や昆布といっただしなど和食の基本を柱とする「丼」は、この100年の間に何度もあった大災害時の復興食でもありました。現代のコロナ禍でもテイクアウトやデリバリーという形も含めて、人の心を温め続けるどんぶり物は、まさに日本人が誇るべき和食の集合知であり、大衆“和”食の王様と言えるのかもしれません。
取材・文/松浦達也 撮影/魚本勝之
2021.11.18