文化・教養
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先人に学ぶ
屋井先蔵(発明家)
電気の時代を先取りし「乾電池王」と呼ばれた発明家
2017年5月公開【全1回】電気の時代を先取りし「乾電池王」と呼ばれた発明家
どこでも持ち歩ける電気製品が巷にあふれる現代。電力がまだ普及していなかった明治時代に、こうした未来を予見したかのように、携帯機器の可能性を切り開いた人物がいた。世界に先駆けて乾電池を作り、「乾電池王」と呼ばれた発明家・屋井先蔵である。
1863年、現在の新潟県長岡市に生まれた屋井は、12歳で東京の時計店に丁稚として入り、15歳のとき長岡市内の時計店に年季奉公に出た。この頃から「永久機関(外部からの動力なしに永久に動く機械)を作りたい」と話し、すでに発明家の大志を描いていたようだ。
年季が明けると、専門知識を学ぼうと再び上京し、東京物理学校(現・東京理科大学)の職工として働きながら、受験勉強に明け暮れた。だが、入学を目指した東京高等工業高校(現・東京工業大学)の受験に二度失敗。二度目の試験に臨んだ際には、町なかの時計が不正確だったばかりに、わずか5分の遅刻で受験資格を失ってしまった。失意に暮れた屋井だが、この一件を機に奮起し、電気の力で正確に時を刻む時計の発明に意欲を燃やすことになる。
電気時計の発明をきっかけに乾電池の開発に目を向ける
屋井は、昼は叔父の会社で働きながら毎日夜遅くまで研究に打ち込み、1885年に電気時計を作り上げた。この発明は電気に関する日本初の特許となる。幼い頃からの発明家の夢をかなえた屋井だったが、電気時計は数台しか売れなかった。電力が普及していない時代に、この発明はいささか早すぎた。また、この電気時計には課題があった。それは電源に使われていた電池である。当時は、大きな容器に電解液を入れた湿電池が一般的だったが、液体は取り扱いが不便なうえ、冬は凍結して使えないという欠点があったのだ。
そこで屋井は、より高性能で使い勝手のいい電池の開発に目を向ける。既存の電池も参考にして、電池の仕組みを再検証し、さまざまな薬品・材料を集めて電解液や電極材を試作。組み合わせを順次変えて材料を絞り込むなど、地道な作業を繰り返した。研究の末、液体だった電解液は、石膏を混ぜてのり状に固め、持ち運んでもこぼれないように工夫した。それでも、電池の正極に薬品が染み出してくるという問題が最後まで残った。そこで、正極に使う炭素棒にロウを染み込せて液漏れを防ぎ、ついに完成。屋井は、従来の湿電池に対し、これを「乾電池」と名付けた。
「世界初」の特許は逃すも今をもってたたえられる功績
屋井は1885年に屋井乾電池合資会社を設立するが、乾電池をいつ発明したかは定かではない。開発資金すら苦慮していた屋井は、特許の申請費用を工面できず、すぐに出願できなかったのだ。特許を取得できたのは1893年。その間、1888年にドイツとデンマークで、乾電池が発明されている。屋井の発明については、東京理科大学の学報が1887年と伝えており、この記載により近年日本では「世界初は屋井先蔵」と見直されている。
働きながら研究に打ち込み、必死の思いで発明した乾電池だったが、注文はなかなか入らなかった。当時は電池で動かす製品がほとんどなかったからだ。時代を先取りしすぎたこの発明も、また埋もれてしまうかに見えた。
1927年、屋井は胃がんで突然この世を去る。屋井乾電池も1950年に幕を下ろし、今は盛時の様子を知ることはかなわない。
それでも2014年、日本の乾電池産業に多大な貢献をしたとして、米国電気電子学会が屋井の発明を表彰した。社会や産業の発展に寄与した歴史的偉業として、時代を超えて認められたのだ。独創性と不屈の精神で時代を切り開いた屋井の功績は、今に受け継がれている。
文:宇治有美子 資料・画像提供:電池工業会
※この記事は、2016年9月発行の当社情報誌掲載記事より再編集したものです。
- 要旨 屋井先蔵(発明家)
- 電気の時代を先取りし「乾電池王」と呼ばれた発明家
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