南極の知見を宇宙に。
初代「しらせ」で模擬宇宙生活スタート
2月23日23時過ぎ、インドネシア人コマンダーと日本人クルー3人による「火星への旅」が始まった。彼らが乗り込んだのは旧南極観測船「しらせ」。クルーたちは管制室と交信しながら、限られた水や食料で16日間暮らす。これは旧南極観測船を「火星に向かう宇宙船」に見立てた、日本初の民間による模擬宇宙生活実験「SHIRASE EXP.」だ。
実験を主宰するのは特定非営利活動法人フィールドアシスタント。理事長は村上祐資さん。村上さんと言えば「火星に最も近い男」と呼ばれ、本コラムでもその豊富な火星模擬生活実験について何度も紹介してきた方だ。彼がなぜ日本で、しかも旧南極観測船を使って、宇宙模擬生活を行おうとするのか。実験開始前日に、宇宙船内を見せて頂きつつ話を伺うことができた。
村上さんはこれまで米国ユタ州にある、赤茶けた砂漠の中の模擬火星基地(MDRS)にのべ100日以上滞在、第50次南極越冬隊員として15ヶ月間滞在するなど、極地経験1000日を超える極限環境のスペシャリストである。その村上さんは「現在、世界各地で行われている火星模擬実験は本来の目的を見失っているのでは」という疑問を感じているという。そもそも火星模擬実験は将来の有人火星探査中の問題点を洗い出すのが目的のはずなのに、火星探査の予算獲得のためのプロパガンダ的な意味合いを帯び、被験者が感じている弱音や本音に蓋をしているのではないかと。
そこで本来の目的に立ち返り、あえて弱音を吐くことを良しとし有人火星飛行に向けた課題を抽出する実験を行う。その現場に南極観測船を選んだのは、日本が世界に誇る南極観測隊の60年の経験とノウハウが生かされると考えたから。「僕が火星模擬実験『マーズ160』の国際チームで副隊長に選ばれたのは、南極での長期間の経験が評価されたからだと思っています。NASAをはじめとする宇宙関係者は長期宇宙滞在でわからない点が多く、一番経験があるのは南極観測隊と気づき始めている 」。そこで旧南極観測船「しらせ」の出番だ。
千葉県船橋港に係留している「しらせ」は日本で三代目の南極観測船で、1983年から2008年までの25年間にわたり日本と南極昭和基地を往復した船だ。今回の宇宙生活実験には「しらせ」乗組員の方がサポートに入っているという。南極越冬経験をもつ村上さんが南極観測船を使った宇宙のプロジェクトを始めることで、南極の豊富な経験を持った人たちがアドバイスしてくれる。「日本の南極基地は他の基地に比べて過酷な場所にある。そこで長年蓄積された経験を宇宙に繋げることで、日本は余裕で世界と勝負できる」と村上さんは考える。
4人が顔を合わせるのは1日4時間。非常時には船外活動も。
では具体的にどんな場所でどんな生活を行うのだろう?チームの一員、高階美鈴さんが実験スタート前日、「宇宙船内」を案内してくれた。高梨さんは将来パティシエを目指す大学生。人とお菓子の関係や生活に関心がある。自然も好きで究極の自然である宇宙に興味をもった。今回の実験では閉鎖空間で人がどう感じたりするか、人と食生活の関係を見ていきたいそうだ。
船内は木目調が基本で昔懐かしい昭和の「日本の家」という雰囲気。今回は火星に向かう宇宙船という設定だから、誰かが起きていなければならない。そこで4人が3つの異なるタイムシフトで生活し、1日4時間だけ顔を合わせる。その間に管制室との交信、食事を行う。「同じ時間なのに朝ごはんを食べる人、夜ご飯を食べる人が混在する。不思議な感覚でしかない」とジャーナリスト担当の高階さんは実験1日目のレポートに記している。
冷蔵庫がないので基本的に食料はお湯を加えるだけのフリーズドライだけ。使える水の量も限られる。トイレの汚物タンクも溜まったら排出作業を行う必要がある。「換気扇のコントロールもする必要があり、トイレのタンク交換など(クルーが環境制御しなければならない点が)宇宙ミッションに近く、『しらせ』を使うメリット」(村上さん)
居室には二段ベッドとそれぞれの机がある。入り口には「第6観測隊員寝室」など南極観測船時代のプレートが残る。4~6畳間ぐらいのスペースがあり狭くはないが窓はない。エクササイズルームで1日1時間のトレーニングが義務付けられている他、シャワールームもある。ただしシャワーは4日に1回という決まり。
太陽フレアが起こり宇宙船の機体が損傷を受けた場合などは船外活動が実施される。宇宙服に着替えて二人一組で船外へ。
こうした作業のほかに、様々な実験も行われる。たとえば、管制室と宇宙船内の間では実際の宇宙船との通信を模擬して通信タイムラグが6分間あるが、そのような状況で未病をどのように発見できるのか。これは宇宙飛行士側だけでなく、管制チーム側の心理状態によってもうまく機能しない場合があるため、管制員も被検者となる。
コマンダーはインドネシア人アーティスト
チームを束ねるのはインドネシア人アーティストのベンザ・クリスト氏だ。彼は2018年3月からMDRSで実施された火星模擬実験『クルー191』で村上さんが隊長を務めたときのメンバーだった。ベンザさんはアートと宇宙科学等のコラボレーションをテーマとして活動、次世代が火星に行けるよう貢献したいという。これまで無重力実験や、米国ユタ州で火星環境に近い極限環境での模擬実験に参加したが、今回の実験は「隔離」にフォーカスされており、参加することで、火星シミュレーション実験を完成できると考えている。
コマンダーとしてどんなミッションにしたいかベンザさんに尋ねると「きっとミッション中には予期しないことが起きるだろう。チームで議論して解決していく。隔離されたとき、人がどんな状況になるのか興味がある」と話してくれた。
村上さんはベンザさんのことを「ロマンチストでオプティミスト(楽観主義者)」と評する。自分は規律を保つタイプでどちらかと言えばネガティブ。タイプとしては対照的だが、村上さんからベンザさんにコマンダーの役割として伝えたのは一つだけ。「クルーを安全に家に帰すこと。あとは自由にやってくれればいい」と。ベンザさんは「愛をもってやる」と笑顔で答えた。
東京都心から車で約1時間という便利な場所で、火星に向かう宇宙船を模擬した実験が今まさに進行中であるとは不思議な気がするが現実だ。
高階さんは1日目のレポートにこう記している。
「宇宙に行ったことのある人もない人も、それこそ地球であっても毎日様々なことで頭を悩ませる。(中略)何がないかわからない中での対策は全て想像し、仮定していくしかない。未知の場所こそ想像力を試されるのだ。人間の本領が発揮されるのはここからではないだろうか。」
これは地上での暮らしにも言えることだろう。誰も経験したことがない、日本での民間初の宇宙模擬生活。どんなことが起こり、どんな弱音を吐き、どのように想像力を働かせて解決していくのか。その過程はフィールドアシスタントのウェブサイトで日々更新される。今回の実験は実は予備実験であり「SHIRASE」が宇宙生活実験の場になりうるかを検証する。その結果をふまえ2021年から本格的な実験をスタートさせる計画だという。南極の知見が宇宙にどう生かされるのか、期待しつつ見守りたい。
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