Vol.2
金星は生命の星だったのか — バイオマーカーとは何か
「明星(みょうじょう)」と聞いて、皆さんは何を思い浮かべるだろうか。
アイドル雑誌?いやいや。これをお読みの皆さんのなかには、夕暮れの西の空や、明け方の東の空で最も目立つ星 —「宵の明星」や「明けの明星」を思い浮かべた人も多いだろう。「明星」とは、ひときわ輝いている人や物を表す語句であるが、薄明の空に燦然と輝く「明星」といえば、すなわち金星のことである。
金星は太陽系の第2惑星であり、地球よりも少しだけ太陽に近い軌道を周っている。僕らが空を見上げるとき、金星はおおよそ太陽に近い方角にあり、太陽の周りを付かず離れず周っている。昼間の空にも金星は存在するが、太陽の輝きのために僕らはこれを目視することができない。金星がその存在感を放つのは、太陽が地平線に隠れて輝きが抑えられる日の出前、あるいは日の入り後の時間に限られる。この星が「明けの明星」、「宵の明星」と呼ばれる所以である。
先日(2020年9月15日)、この金星に生命の痕跡かもしれない物質が見つかったというニュースがあった。このような生命の存在を示す物証のことを、僕たち研究者は“バイオマーカー”と呼ぶ。一体、金星におけるバイオマーカーとは何なのだろうか。金星に生命が存在した可能性はあるのだろうか。金星に限らず、これを見つけたらこの星には生命がいるに違いないと言える絶対的なバイオマーカーなど存在するのだろうか。
今回は、このニュースの舞台である金星とバイオマーカーについて話をしよう。
ヴィーナスの素顔
金星は、しばしば地球の兄弟星と称される。金星の大きさや重さが地球に瓜二つというだけでなく、その誕生のしかたや材料物質までも地球とほとんど同じなためである。太陽系の初期に、これら2つの惑星が生まれた時期もほぼ同じだと考えられており、兄弟星というより、あるいは地球の双子星といったほうが近いかもしれない。
しかし、この双子星たちの“顔”ともいえる地表面の環境は似ても似つかない。金星は90気圧もの厚い二酸化炭素の大気をもち、地表の温度が460℃にも達する灼熱の惑星である。温暖で海があり、生命にあふれる地球とは真逆ともいえる別世界だ。
なぜ、地球と金星の地表面の環境は、こうも違うのだろうか。
簡単にいえば、それは金星が地球より少しだけ太陽に近い軌道を周っていることによる。太陽と地球との距離を1とすれば、太陽と金星との距離はおよそ0.7。太陽に近い分、金星には地球の約2倍の太陽光、つまり約2倍の熱が降り注ぐ。
仮に金星に水があったとしても、強力な太陽光ですぐさま蒸発し、最終的には金星の重力を振り切って宇宙空間に逃げていく。
現在の金星の灼熱環境には、地球上のいかなる生命も生息することはできないのである。
金星の運命、地球の運命
僕が“現在の金星には”と書いたのには訳がある。過去においてはその限りではないからだ。
実は僕らの太陽の光の強さは、時間と共に徐々に増している。増しているといっても、太陽系の誕生以来、45億年間で30%ほど、長い時間をかけてゆっくりと増加しているのである。
そう聞いて不安になった方もいるかもしれない。太陽が明るくなれば、現在の地球温暖化にさらに拍車がかかるのではないかと。
ご安心を。45億年という時間スケールをかけて少しずつ増加する太陽光が、たかだか100年程度の我々の日常生活に深刻な影響を与えたりすることはまずありえない。しかし、太陽系が出来たてのころ、太陽がまだ今より30%ほど暗かった45億年前においては、この影響は甚大だった。金星の姿が、今とはだいぶ違ったものになっていたかもしれないからだ。
45億年前の暗い太陽の下では、金星へ注がれる太陽からの熱は今よりもずっと弱かった。研究者の間でも意見は分かれるが、当時の金星の地表面の温度は今ほど高くはなく、液体の水、すなわち海も存在可能だったとする理論研究も多くある。つまり、45億年前には、地球と金星は、地表面の環境までよく似た海の惑星だった可能性があるのだ。
金星では、その後、太陽が明るさを増していくにつれて地表面の温度が上昇する。海が蒸発し、現在のような灼熱の惑星になっていく。
そして僕らにとって重要なことは、今から約20億年後には、現在よりさらに明るくなる太陽に照らされ、今度は地球の地表面温度が上昇するということである。海も蒸発し、金星のような灼熱の惑星になる日が、いつか確実に地球にもやってくるのだ。
つまり、金星は地球より一足先に灼熱の惑星になっただけであり、両者は本質的には同じ運命をたどる双子星だといってよい。
金星はかつて海の惑星だったのだろうか。生命の惑星だったのだろうか。
金星にホスフィン?
2017年と2019年、英国やアメリカ、そして日本の研究者からなる国際観測チームは、南米チリのアルマ望遠鏡などの電波望遠鏡を使って金星大気の観測を行った。大気中にホスフィンという物質があるのか探すことが目的だった。
「観測データの本当に微弱なシグナルから、金星大気中にホスフィンがあるのか。その量を計算して見積もるのが、私の役割でした」
そう語るのは、国際観測チームの一員である京都産業大学の佐川英夫さんだ。彼は、僕の出身大学・学部の誇るべき後輩である。彼は学生時代から長年太陽系天体の観測に携わっており、今は最先端のアルマ望遠鏡も使う、国際的に活躍する観測惑星科学者である。
佐川さんの計算によれば、ホスフィンは厚い金星大気の上層、硫酸の雲の上に存在しているという。地表は460℃の高温であるが、ホスフィンの存在する大気の上層、硫酸の雲のある辺りの温度は0~50℃程度と地球生命にとっても適温だ。ただし、適温とはいっても雲をつくる濃硫酸のため、やはり地球上に現存するいかなる生命の生存にも適さない。
ホスフィンとは何であろう。ホスフィンは、リン(元素記号でP)に水素原子(同じくH)が3個ついた構造をしている。化学式で書けばPH3。このホスフィンが、金星に生命の痕跡が発見されたというニュースの肝となる物質、バイオマーカーである。なぜ、ホスフィンがバイオマーカーといえるのか。
リンは通常、地球や金星のような岩石質の惑星において、酸素原子(元素記号でO)と結びついたリン酸(化学式でPO4)の形をして自然界に存在している。地球や金星の大気やマグマ中では、水素と結びついたホスフィンは不安定で、酸素と結びついたリン酸になってしまう。
地球上で唯一、自然界においてホスフィンを作り出す過程は生命によるものであり、これ以外は知られていない。生命にとってリンはDNAを作る材料の一つでもあり、体内で水素原子と結びつく。
佐川さんを含む国際観測チームは、金星の大気中に、地球上では生命以外に作ることのないホスフィンを見つけたのである。
バイオマーカーとは
こう書くと、次のような疑問を持たれる方もいるだろう。
“地球生命が作るホスフィンを、金星生命が同じように作っている保証はないだろう”と。
その通りである。当然、地球生命と金星生命が、同じようにDNAをもち、同じ代謝を行っている保証はどこにもない。むしろ、仮に金星生命がいれば、それらは僕たちとは構造や代謝など、根本的に違っていると考える方が自然だ。
ただ、ホスフィンの重要な点は、地球の生命がそれを作ることができるという点ではなく、生命以外のいかなる自然現象もこれを作るのが難しいという点にある。バイオマーカーとは、生命の指標である。いかなる自然現象でも説明のつかない異質な物質こそ、バイオマーカーなのである。
しかし、ホスフィンに限って言えば、本当に生命以外に作られることはないのだろうか。佐川さんは慎重につづける。
「ホスフィンが生命以外の過程でできた可能性は否定できません。金星でおきる化学反応のすべてを、我々が理解しているわけではなく、見逃されている過程もあるはずです。」
金星に存在するホスフィンはどのようにできたのか。可能性はいくつかある。
一つは、約45億年前の金星は地球と同じような生命の星であり、誕生した生命の子孫である微生物が、灼熱の惑星と化した後も適応進化し、硫酸の雲粒の中で生きているというもの。
もう一つは、僕らの知らない化学反応が金星の大気で起きており、生命とは関係ない現象でホスフィンが生まれているというものである。
金星がかつて海の惑星、生命の惑星だったのかを確実に明らかにしたければ、地表を詳細に調べる必要があるだろう。あるいは、大気に突入して雲を調べる方法もある。今回観測されたホスフィンのシグナルは微弱で追加観測は必要だ。実は、これら金星の地表面や大気・雲を調べる探査が、すでにアメリカで計画されている。今回の発見は、これらの計画を後押しするものとなろう。
今から20億年後、太陽系には2つの灼熱の惑星がある。金星と地球だ。地球の表面には、かつてこの星が海と生命の惑星だった面影はなく、高温の荒涼とした溶岩の大地が広がっている。
太陽系外に存在するある惑星で、知的生命が太陽系を望遠鏡で観測し、金星と地球を見つける。そして、どちらの惑星の大気にも微量のホスフィンが存在することを発見する。彼らは、地球大気のホスフィンを、僕ら地球生命がこの星に存在した証拠だと認識してくれるだろうか。
金星は、果たして生命の星だったのか — 僕は夜明けの空に問いかけてみる。
薄明の空に燦然と光を放ちつつ、金星は沈黙している。
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