ライバルは燃焼系暖房機。
~北国の常識を覆す挑戦が始まった。
三菱電機の燃焼系暖房機からの撤退が間近に迫った2004年。
当時、ルームエアコン設計開発のグループマネージャー井上は、これからの寒冷地暖房を見据え「省エネや環境問題を考えれば、たとえ北国であっても今後はエアコンが暖房機の中心になるべきだ。」と考えていた。しかし通常のルームエアコンは、低外気温では能力低下のある商品。暖房に軸を置く寒冷地向けルームエアコンなど前例がなかった。外気温が-25℃にも達する極寒の地や、積雪2mを越すような豪雪地帯で、果たして北国の冬の常識である『燃焼暖房』にとって代わるエアコン暖房ができるのか?疑問はあった。
寒冷地におけるヒートポンプの課題
「山下、新潟出身だったよな」
~雪国を知る男に、白羽の矢は立った。
「山下、お前新潟出身だったよな。雪、詳しいだろ。やってみるか?」
上司の井上が発したその一言が、山下哲央の苦闘の始まりを告げる合図だった。折しも山下は床置エアコンの開発を終え、次は何に挑む?と目標を探していた時だった。北国にエアコン暖房を浸透させる!という、常識を覆すチャレンジに、山下の目は輝いた。
「ぜひ!」快諾し、開発担当の任についた。雪国出身の山下。もちろん極寒の冬の厳しさは身に染みて知っていた。北国の冬の暮らしを良くしたい、という思いは人一倍強く持っていた。
当時の北海道や東北における、エアコンの暖房機能の評判は散々なものだった。「ぜんぜん暖まらない。」「運転し始めたと思ったらすぐに霜取りになる。」エアコンは使えないというイメージは根強く、「外気温に左右されない燃焼暖房じゃなきゃダメだ。」が北国の常識だった。
だからこそ、第一の目標は、「燃焼系に負けない能力を低外気温でも出すこと」にあった。目標は『最高60℃温風。外気温-15℃での定格暖房能力』。それをいかに技術的に実現するかがテーマになった。