未来は叶えるもの
—日本科学未来館館長が体験から語ったこと
7月8日、東京お台場・日本科学未来館で公開された地球ディスプレイ「ジオ・コスモス」の新コンテンツ「Into the Diverse World 多様な世界へ」は衝撃的だった。
4分間の動画は人工衛星が観測した地球の地表面温度や雪氷、水の循環といった地球環境の投影から始まる。ここまでは想定内だ。次に現れたのが民族、言語、国境の変遷・・。国民総所得では一部に富が集まっていることが可視化される。水にアクセスできない人の割合、自分の家に帰ることのできない人たち、さらに報道の自由・・。私たちが様々な「違い」の中で生きていることが、カラフルな映像で直感的にわかりやすく提示される。日本で当たり前に享受されていることが、地球全体では当たり前でないという事実に直面してとまどう。「地球の裏側にいる人があなたの一番の理解者かもしれない」「今、隣にいる人は、全く違う世界を生きているかもしれない」というナレーションにドキッとする。
これらの映像は世界各地の研究機関や国連機関が公開する科学・統計データをもとに映像化されている。データリサーチ・シナリオ設計を担当したのは、JAXA認定スタートアップの「天地人」。地球観測衛星のデータなどを活用して「宇宙ビッグデータ米」などに取り組んでいる注目の企業だ。
様々な「違い」の中で生きている私達。多様性の中でお互いを認めながら、いかによりよい社会を実現できるのか。まずは宇宙から俯瞰した視点で、事実を知ることから始めよう。じっくり見て、考えたいコンテンツだ。
「ジオ・コスモス」によって地球が様々な課題を抱えるという現状が示された。では私たちは今後、何をどうすべきなのか。日本科学未来館の浅川智恵子館長は、未来に向けたスローガンを語り始めた。
「気候変動や感染症、地震や台風などの自然災害や世界情勢など、(地球には)越えなければならない課題があふれている。未来がいつの間にか暗いものとなり、不安を感じている方も多いのではないか。科学館はこの時代に一体何ができるのか、人々が前向きに未来を考えるために何をするべきか」。そのために、日本科学未来館は前例や常識にとらわれない、新しいミュージアムの在り方を追求していくと明言する。
そして浅川館長は新たなスローガン「Mirai can_! 未来は、かなえるものへ。」を発表した。未来は遠く手の届かない場所ではなく、一人一人の願いの中にある。「一人一人が未来を自分の事として考え、願いを託してほしい。(未来館は)その願いに目を向けて実現を助ける場になりたい」。そして浅川館長自身の夢を発表した。「一人でホノルルマラソンに出場!」。
浅川館長は中学生の時に失明、今は目が見えない。そのハンディを克服し、視覚障碍者が一人で行きたいところに自由に安全に移動するためのナビゲーションロボット「AIスーツケース」を開発している。元々スポーツが大好きで、失明後もスポーツを楽しむ彼女はAIスーツケースをさらに進化させ、ホノルルマラソンを一緒に走るというのだ!
「一緒にマラソンを走るには新しい技術が必要です。2030年にホノルルで快適に走るには地球温暖化も気になります。一人一人の願いをかなえるという目標から、未来を作る『科学技術の種』が生まれてくるはず」と力強く語る。
また、新内眞衣さん(元乃木坂46)は浅川館長との対談で、「宇宙スタジオから生放送」という未来の夢を発表した。
「宇宙はすごく遠い存在。そんな宇宙から生放送ができるぐらい身近になったら素敵。宇宙から見た景色を臨場感のあるレポートできたら。高揚感とテンションですごい放送になりそう」
新内さんの夢に対して浅川館長は「素晴らしい。今は宇宙への旅行が民間でも行けるようになった。だが一般人にはなかなか手が届かない。大変なコストがかかる。どうすれば私たちが行けるのか、科学技術の開発が必要になると思う。アメリカに出張に行くように、『ちょっと宇宙に出張に行ってくる』という時代がどうしたらくるのか、専門家や(未来館の)科学コミュニケーターに聞いてみたい」と語った。
実は宇宙からの生放送は「KIBO宇宙放送局」として、JAXAとバスキュールによって2021年末に実現されている。宇宙旅行した前澤友作さん(主に収録)、ISSに滞在した野口飛行士が宇宙から見た「初日の出」などを生中継でリポートしているが、より多くの一般の人が宇宙から生放送したり、宇宙に出張したりする未来が実現してほしいものだ。
「情報の壁」「移動の壁」を科学技術で乗り越えたー浅川館長の原点
この「Mirai can_! 未来は、かなえるものへ。」というスローガンは、「私自身が科学技術によって、未来が大きく開けた経験をした」という浅川館長の経験に基づく思いが込められている。
「中学時代に失明したのですが、当時は情報へのアクセスが一人ではできなかった。そして一人で外出することが難しいという困難に直面しました」。情報の壁、移動の壁が少女時代の彼女に大きく立ちふさがっていた。では失明した時点で、情報に自分でアクセスしたいという夢をもったのだろうか?
「私の中学時代は1970年代ですが、コンピューターも携帯電話もない時代。科学技術は身近ではなかったし、パーソナルコンピューターって何だろうと。当時は(視覚障碍者が普通の情報にアクセスできるようになるとは)想像もできなかった。想像できるようになったのは大学を卒業した80年代。10年間で世の中が変わったのです」(浅川館長)
高木啓伸副館長によると「80年代後半に点字のデジタル化、90年代後半にインターネットに音声でアクセスするという技術革新が起きた」。この2段階の技術革新が鍵だった。
具体的には視覚障碍者は(80年代まで)紙に点字を打った書籍しか読むことができず、大学の授業で必要なテキストの点字翻訳をリクエストし入手するのに数か月を要したこともあったという。「大学の勉強はすごく大変でした。小さな英和辞書を点字にすると100巻、ウェブスター(の辞典)だとその何倍にもなるんです。勉強したくなくなりますよね。でもテクノロジーによって、簡単に検索できるようになったんです」(浅川館長)
浅川氏は1985年に唯一の視覚障碍者研究員として日本IBM東京基礎研究所に入社、大学時代の経験から点字のデジタル化プロジェクトを始める。さらに文章の検索が可能になり、ポータブルなデジタル点字辞書が実現した。これらは視覚障碍者の教育に大きな変革をもたらす。だが情報源は点字や録音図書のままだった。
そこに登場したのがウェブだ。90年代後半、他の研究員の手を借りて初めてウェブにアクセスした浅川氏は、視覚障碍者にとって新たな情報源になることを強く確信。その後ウェブページ上のテキストを音声で読み上げる世界初の実用的な音声ブラウザソフトウェア「ホームページリーダー」を開発、日本だけでなく世界に広がった。視覚障碍者にとっての「情報の壁」を取り払ったのだ。(参考:浅川智恵子氏「多様性が拓くイノベーション」学術の動向2017年22巻11号より)。
「その二つに自分が関われたのはラッキーだったと思います。10年単位でテクノロジーが凄い勢いで進化している。50年前の中学生の頃、絶対にできないと思っていたことが今ふり返るとできている。その背景に科学技術があったのです」
だが「情報の壁」を取り払った頃、浅川氏は「移動の壁」を解消できるとは思い描いてなかった。科学技術の進化とともに、自分の「Mirai can_!」つまり可能性がどんどん広がって行ったと語る。最初にAIスーツケースを思いついたのはいつだろう?
「2014~2015年頃です。一人で出張する時は空港でスーツケースを持ちますが、白杖をもつと両手がふさがってしまう。そこで白状をしまってスーツケースを前に出して歩いたんです。スーツケースを前にすれば段差があればわかるし、壁があればぶつかる。安全だし、ロボットにすれば白杖の替わりになるかもしれないと思ったんです」
AIスーツケースを体験!
AIスーツケースってどんなものだろうか。私も体験させてもらった。カメラとセンサーが載っているが、2~3泊用のキャリーケースと同じぐらいで見た目はスマート。目をつぶってスーツケースのレバーを握ると、意外に力強く目的地に導いてくれる。歩いている途中、止まることがある。誰かが進行方向に現れたようだ。その人が通り過ぎると、ふたたび動き出す。最短経路で目的地に導いてくれる。頼れる相棒という感じだ。視覚障碍者だけでなく、足元がおぼつかなかったり、認知症が進み道を歩いている間に目的地やルートを忘れてしまったりする私の母のような高齢者も活用できれば、と実感した。
AIスーツケースは現在、第四世代でありさらなる進化を続けている。屋外走行のためにはGPSやモーターなど技術的な課題がある。さらに日本では視覚障碍者が公共の場を歩くときに白杖をもっていないといけないという法律など、制度的な壁がある。それでも「ロボットが人をアシストするという世界に向けて、東京都とは実証プロジェクトの準備を進めている」と高木副館長。「将来、ロボットが街中を歩くようにきっとなるはず。AIスーツケースを持った人が未来館の中を歩くことで、未来の風景を来館者に感じてもらいたい」と語る。
ところで、ホノルルマラソンにAIスーツケースと走るにはどんな技術的進化が必要なのか、浅川館長に尋ねた。「今、衝突回避のためにスピードは秒速1.1~1.2mにしています。ホノルルマラソンを走るには遅すぎます。走行速度が早ければ早いほど、処理速度が必要。軽く小さくしないといけないし、速度を上げないといけない。ぶつからないために周りを見ないといけないし、やることはたくさんあります。私は目が見えなくなってからも結構マラソン大会に出ていましたが、人(伴走者)と走るのは大変ですし、伴走者の方も大変だと思います。AIスーツケースがガイドしてくれて、一人で走れたら楽しいだろうなと。2030年には実現したいですね」
「4つの入り口」から未来を作る
未来はかなえるもの。科学技術が未来を拓くと言われても、科学技術の事をよく知らなければとまどうかもしれない。「科学技術になじみがなかった人もそれぞれの関心事に合わせて、未来を考えるきっかけにしてほしい。そこで未来館では人の視点で4つの入り口を用意した」(高木副館長)。それが「Life」「Society」「Earth」「Frontier」。それぞれの入り口ごとに新しい展示や体験型のイベントが次々企画されている。これらを通して「自分にとっての未来」が見えてくるかもしれない。
未来を作る取り組みに自分も参加できる。「東京・お台場は遠い」と思うかもしれないが、今後未来館では空間や世代の違いを超えて活動に参加できるように検討していくそう。ちなみに来年1月には「有人宇宙開発」をテーマにしたプログラムを予定しているそうで期待したい。
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