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ライター 林 公代 Kimiyo Hayashiライター 林 公代 Kimiyo Hayashi

宇宙飛行士候補者は、なぜANA教官も驚く進化を遂げられたのか

訓練中の米田あゆさん(右)と諏訪理さん。ANAグループの総合トレーニングセンターANA Blue Base内のフライトシミュレーターで。(提供:JAXA/ANA)

JAXAの宇宙飛行士候補者・諏訪理さん、米田あゆさんが乗るのは、ANAのパイロットたちが実際の訓練で使うフライトシミュレーター。画像手前の米田さんが機長、奥の諏訪さんが副操縦士を務める。伊丹空港を離陸し、羽田空港に降りる予定が、静岡上空で霧がかかり天候悪化。さらに2つあるエンジンのうち一つにトラブルが発生する。引き返すべきか、着陸地を変えるべきか。飛行機は高速で飛んでいてタイムプレッシャーもある。さぁ、どうする?

これは2024年8月5日、ANAの施設で記者公開されたJAXA宇宙飛行士候補者訓練の一コマだ。ANAホールディングスはJAXAから日本人宇宙飛行士候補者の基礎訓練の一つ「心理支援プログラム」を行う企業として2023年11月に選定された。

そう、この訓練は「操縦訓練」ではなく「心理支援プログラム」の一つなのだ。国際宇宙ステーションなどに長期の宇宙滞在を行う宇宙飛行士には「状況認識」や「コミュニケーション」、「意思決定」など8つの行動特性が求められている。これら行動特性を向上する訓練実施企業としてJAXAが選定したのが、運航乗務員や客室乗務員への豊富な教育訓練の知見をもつANAホールディングスだった。

JAXA有人宇宙技術部門の阿部貴宏氏は、ANAを選定した理由について「宇宙船は4人乗りと少人数。何かトラブルがあった時にまず状況を把握しなさい、対処方法をチームで議論しなさい、宇宙飛行士で解決しないなら地上も含めたリソースを活用して解決しなさいと指示する。それら宇宙飛行士の作業内容と(コックピット内で運航乗務員が行う内容は)親和性が高く、効果的な訓練を提供できるノウハウがあるところに期待して協力をお願いした」と語る。

いったいどんな訓練なのか。宇宙飛行士候補者の学びから私たちが得られることはあるのか、取材した。

NASAチームワーク訓練の大元、航空会社が行う「CRM」訓練とは

フライトシミュレーターの前に立つ宇宙飛行士候補者たち。内部にはコックピットが再現されている。「揺れとか小刻みな振動とかがリアルで、飛行機の中にいるような気がしてすごいと感じた」(諏訪さん)。(提供:JAXA/ANA)

そもそもNASAが宇宙飛行士に行うチームワーク訓練は、航空会社とNASAが開発したものが大元になっていることをご存じだろうか。1970年代に頻発した航空機事故の原因を調査した結果、問題はハードウェアでなく、乗員同士の関係やチームワークにあることがわかった。当時のパイロットは上下関係が厳しく、機長が絶対的権限をにぎり、操縦士の意見が無視されることもあった。航空機事故原因で最大のものがヒューマンエラーだったというわけだ。そこで運航にかかわるすべての人や情報などのリソースを、最大限に活用してミスを防ごうという考え方「CRMクルー・リソース・マネジメント」が生まれた。

宇宙飛行士候補者の訓練では、5日間の座学講義で運航に関する基礎知識を学んだあと、フライトシミュレーターを使った訓練を5回行う。(提供:JAXA/ANA)

CRM訓練はあらゆるリソースを活用して、航空機の安全で効率的な運航を達成するもので世界中の航空会社で実施されている。ANAは1987年から運航乗務員を対象にCRM訓練を開始、長年深化させてきた。具体的にはコミュニケーション、チームビルディング、状況認識、意思決定などについて個人やチームの行動やふるまい、考え方を向上させる訓練だ。

今回、宇宙飛行士候補者訓練に行われたのは、ライセンスを持つパイロットに行うCRM訓練と基本的に同じ。期間は2024年5~9月までの24日間。宇宙飛行士用に何かカスタマイズした点はあるのだろうか。たとえば、米田さんは最初にコックピットに入った時、「スイッチがいっぱいで何がなんだか、まったくわからなかった」という通り、宇宙飛行士候補者2人には航空機に関する基礎知識がほとんどない。

全日空フライトオペレーションセンター訓練業務部・鈴木直也部長は「航空機の知識がない方に訓練を実施する懸念があった。そこでしっかり基礎知識を提供することにした」と語る。具体的には、「通常のパイロット訓練生に実施する場合は事前学習を4日間、自習で行ってもらうが、今回は5日間にわたって、教官が(宇宙飛行士候補者に)座学で基礎知識を教えた」とのこと。その後、シミュレーターを使った訓練は5回行われ、記者公開された8月5日は4回目だった。ちなみにANAはCRM訓練を医療従事者などに行っているが、シミュレーターを外部に対して使う訓練は初めてとのこと。

「東京―大阪便に乗客として乗ることはあっても、コックピットの中がこんなに忙しいものとは知らなかった。スイッチの場所や手順の意味もよくわからず最初はこなすので精一杯。何回か飛行を繰り返すうちに慣れてきた。繰り返しやることは重要」(諏訪さん)。(提供:JAXA/ANA)

訓練内容はボーイング777フライトシミュレーターに乗り、午前中は東京から大阪へ(諏訪さんが機長、米田さんが副操縦士)、午後は機長と副操縦士が交代して大阪から東京へ。途中、システムトラブルや天候急変が発生。目的地を変更するか、引き返す判断をするか。2人でコミュニケーションをとり、地上管制官とも相談しながら適切な判断ができるか、その過程を含めて訓練する。

訓練後の反省会—日常生活に活かせる点も

午後のフライトシミュレーター訓練を終え、シミュレーターから出るANA教官と宇宙飛行士候補者たち。

訓練中、印象に残ったことはなんだったのか。「天候が急変して予定していた(羽田)空港に向かえない。さらに左右両方あるエンジンのうち一つのエンジンしか使えなかった時、もっともワークロードが高まった。時間が限られた中、着陸候補地をあげて2人で話し合って決めないといけなかった。私が機長として操縦桿を握っているとき、諏訪さんが中部空港、成田空港だけでなく、大島の空港もあげてくれた。選択肢を多く出してくれたことが印象的でした」(米田さん)。航空管制官とも連絡をとって天候を聞き、各空港のメリットとリスクを話し合い、成田空港に無事に着陸することに成功した。

訓練後には担当教官と反省会が行われる。難しかった点を尋ねられ、諏訪さんはこう語った。「エンジントラブルが起こって、さらに天気が悪くなった。何をするのか短時間で整理して優先順位付けをしないといけない。考える余裕もない中で決断、操作しないといけない。2人が同じようなミスをしないようにチェックしないといけないが、時間的なプレッシャーもあり、焦ると難しい」

シミュレーター訓練後には教官と訓練のふりかえりを行う。

一方、米田さんは「4回目で慣れてきたが、新しいことが入ると今までできていたことも注意が向けられなくなる。決められたフライトルートの準備はしっかりやっていたが、予期せぬことが起きて方向転換せざるを得なくなると、準備していたことと同じクオリティにするのは難しい。何か起こるかもしれないと念頭に置くことが大事と感じた」とふり返った。

これらの意見に対して教官からは「ワークロードが高くなると、人間は誰でもミスをする。一人がミスをしても、もう一人がカバーして通常の状態に戻せる。それが大事。2人でカバーしあっていて非常によかった」。「常に先々を考えることが大事。起こるかもしれないし起こらないかもしれないが準備をすることで余裕をもてる。日常生活でも『雨が降りそう』、『誰かが来そう』などやっていること」などのアドバイスがあった。

ミスは誰でもするものという考え方、先に起こりそうなことを考えて準備するという点は、日常生活にも大いに活かせそうだと感じた。

パイロットよりも進捗が速い!

全日空フライトオペレーションセンター訓練業務部・鈴木直也部長。

ANAでは4名の教官が今回の訓練に対応した。評価は?「担当者は口をそろえて(諏訪さんと米田さんの)進捗度の速さ、理解力の高さに驚いている」(ANA鈴木部長)。「航空機の運航でなく、宇宙でのミッションの場合はどうかと自分たちの中に落とし込む力も高い」と高評価だった。その進捗度の速さはパイロットやパイロット候補生以上だという。

だが、コックピット内はスイッチだらけでそれぞれの役割を理解するのも難しそうだし、交信時も専門用語が多い。さらに航空機は常に動いているというタイムプレッシャーもある。そんな難易度の高い訓練で、どうやってパイロットより早い進捗をとげられるのか。米田さんにぶつけてみたところ、最初に出た言葉が「楽しかったんです」だった。

「スイッチがこういう仕組みになっているんだとか、スイッチを押すことで飛行機がこう動くのかとわかっていく楽しみがあった。ステップアップしていくこと自体が楽しい」

そして報道陣が向けるカメラに目を向けると「カメラにたくさん囲まれていますが、最初にコックピットに入った時の何も知らない状態はピントがぼやけた状態のようだった。一つ一つ知っていくとピントがあって解像度が上がってくる。教えて頂いたこと、訓練で培ってきたことで私自身がピントが合うレンズをたくさん持って、色鮮やかに感じたものを色々な方に伝えていって成長していけたらと思っている」。

学ぶことを心から楽しむことが、彼らの理解の早さの神髄のようだ。そして米田さんの表現力には、感嘆するばかり。宇宙飛行士候補者2人が優秀で、訓練日程の調整が順調であることから基礎訓練は予定より早く今年10月中には終了し、諏訪さん、米田さんは晴れて宇宙飛行士に認定される見込みとのこと。

正式な宇宙飛行士になる日も近いが、諏訪さんは「1年1か月の訓練で色々なことを学んだと同時に課題も見えてきた」と謙虚に語る。「今回の訓練でも見えている範囲が少ないと、なかなかベストな判断ができない。訓練でできるだけ色々な状況を経験して、何かあった時にどうしたらいいか経験を積み重ね、宇宙実験も含めて幅広いバックグラウンドを知っておきたい」と残りの訓練も真摯に学ぶ覚悟を語った。

今回の宇宙飛行士候補者訓練は、約25年ぶりに国内で行われ、民間企業の知見を大いに取り入れている点で画期的だ。「航空会社は毎日ものすごい数の飛行機を飛ばしている。知識の蓄積が体系だっており、その知見を学ばせてもらっている」(米田さん)「研修や訓練は様々な企業で行われている。宇宙飛行士の訓練として利用させてもらえるものはいっぱいあるだろうし、企業とパートナーが組むことで違った可能性が開けていくのかなと思った」(諏訪さん)。日本の宇宙産業活性化という点でも、これから宇宙に飛び立つ人たちが、民間企業で訓練する意義は大いにあると言えるだろう。

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