いったん成功すれば毎号同じ宇宙機。
打ち上げ後の運用それぞれに闘いがあった。
2009年9月11日の初号機打ち上げから2020年8月20日9号機の大気圏再突入まで、宇宙ステーション補給機「こうのとり(HTV)」は全機成功という、米ロの補給船でも成しえなかった偉業を達成。日本の技術力を世界に示し、宇宙大国の仲間入りを果たした。
実は、この成功は「石にかじりつくようにして」達成したもの。JAXA、メーカーのエンジニアらが垣根を超えてチームジャパンとして成しえた成果である。今だからこそ語れるあの時の苦難、葛藤、そして喜びとは。
座談会進行・執筆:林 公代
開発初期、「『HTV(こうのとり)』が来ないことがISS(国際宇宙ステーション)の安全」と屈辱的な言葉をNASAから告げられたチーム「こうのとり」。だが屈することはなかった。成功を重ね、5号機では他国の貨物船が相次ぎ失敗する中、「こうのとり」だけがISSの危機を救った。その技術力と信頼性を世界が認め、6号機からISSの命綱・新型バッテリー等の運搬をNASAから依頼される。ますます重くなる責任。世代交代やモチベーション維持の課題もあった。そんな中、6号機は初めて「こうのとり」側のトラブルで打ち上げ延期。技術者たちは襟を正すことになる。
「おごり高ぶりを捨てろ」と言い聞かせたはずなのに
- —前回は様々なトラブルに直面しながらもISSに確実に物資を届け、成功を重ねてきたことを伺いました。しかし5号機が大成功を収めた直後、6号機では射場作業中に推進モジュールの配管溶接部で試験用ガスの漏れが見つかり、打ち上げが2か月遅れることになりました。連続成功の難しさはどこにあるのでしょうか?
- 植松洋彦(以下、植松):
「慣れ」が生じて問題を見抜く目が曇ってしまうことです。例えば前回お話した3号機は大きなトラブルを抱えながら命からがら達成したミッションですが、周りから見れば100%の成功です。「成功して当たり前」と世の中がもつ印象が我々にも伝わって、錯覚を起こしてしまう。また、新しく加わってきたメンバーには開発の苦労を知らない人がいて、中には失敗の危機感が薄い人もいたかもしれない。彼らに、なぜ「成功が当たり前じゃないか」を伝えるのが難しい。チームを率いる際、「おごり高ぶりは捨てろ」を合言葉にしていました。
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- 植松:
そして6号機以降はバッテリーや酸素ボンベ、大量の飲料水など、失敗したらISSの運用が立ち行かなくなるような物資を「こうのとり」に載せるようになって、責任という重しがどんどん大きくなっていきました。
- —初号機は、「日本の物資は運んでいいが、大事なものは『こうのとり』には搭載しない」と言われていたのに。
- 植松:
そうですね。ところが6号機では「淡々とやろう」と言い聞かせていた自分がまさに穴にはまってしまったんです。2016年10月の打ち上げを目指し「こうのとり」6号機の射場作業中の7月頃、溶接不良による試験用ガス漏れというトラブルに直面しました。実はそれ以前から射場で異常な兆候が見えたのに「毎号機、(試験用ガスは)少し漏れているし、まぁいけるんじゃないか」と判断してしまった。それは間違った判断であり、頭をハンマーでひっぱたかれたような気持ちでした。おそらく、あのまま修理せずに打ち上げていたら、最悪のケースとして推進系の両方を失ってミッションは失敗したでしょう。そのくらい重大な不具合でした。
- —異常な兆候というのは、それまでの号機と比べてどうだったのですか?
- 植松:
過去の号機よりは多い漏れでした。でも仕様の範囲には入っていたこともあり、ちゃんと突き止めようとしなかった。未熟なところだったと思い知らされました。
- —6号機は新型バッテリーが搭載され、当時ISSに滞在していた大西宇宙飛行士がバッテリー交換を船外活動で行うことが予定されていました。大西飛行士は10月末に帰還予定でしたから滞在中に届けたいとか、修理・延期に伴うコストとかが気になったという事はありますか?
- 植松:
いったん組み上げた機体をまたばらして修理作業をする。つまり大手術をすればスケジュールは延期されるし、お金もかかります。それらを考えて、自分は技術的判断を誤った。
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- —松尾さんは開発初期、「こうのとり」の推進モジュールを担当なさっていましたよね。
- 松尾忍(以下、松尾):
はい。ただ、6号機で異常な兆候が出た時は新型宇宙ステーション補給機「HTV-X」が社内で立ち上がり始めた頃で、私は提案書の作成作業を進めていたんです。その時に射場で問題が起きた。推進系の元設計担当ということで愛知県小牧市の工場で原因究明や対策にあたりました。
- —どんなことをなさったんですか?
- 松尾:
前回、千葉さんが射場作業で時間が限られる中、4号機で地球センサーの交換を行ったという話をされたじゃないですか。6号機もとにかく打ち上げを延期したくなかったので、交換しなくてすむ方法を色々考えました。例えば、漏れているところに樹脂製のシートをホースバンドで巻きつけたら漏れが止まるんじゃないかと考えて、わざと穴をあけた配管に試してみたり、接着剤で配管の穴を固めてみたり。色々試してみましたが、どれも確実に修理ができるとの確信が持てず、全部採用しませんでした。とても暑い夏で、汗を流しながら作業していたことを覚えています。
- —つまり、交換せずに射場で修理するのは困難であると。
- 松尾:
はい。結局、次の7号機用に作っていたものを持ってきて射場で付け替えるという大修理をやることになり、打ち上げが延びることになったのです。「こうのとり」全9機の中でロケット側の事情でなく、「こうのとり」側の作業で打ち上げが延びたのは6号機だけです。
リーダーの孤独
- —「こうのとり」の打ち上げ時期についてはNASAとの約束があるし、修理交換となるとコストがかかる。一方、焦って失敗すれば命取りになる。延期は難しい判断ですね。
- 植松:
当時のJAXA理事だった浜崎敬さんが、「このまま打っちゃだめだ」と止めてくれた。冷静で正確な判断に感謝しています。後に浜崎理事に言われたある言葉が、ものすごく胸に刺さりました。「厳しい判断をせざるを得ない、上に立つ者の孤独がわかるか」と。
- —プロマネは孤独なものですか?
- 植松:
孤独ですよね。6号機ともなると初号機から開発に関わった人間がほとんどいない状況で新人が入ってくる。開発や製造で味わった苦労や危機感を若い人たちと完全に共有することは難しい。成功体験しかない人は、あれもやりたいこれもやりたいと軽く提案してきます。それに対して「詰めが甘い」と鬼にならざるを得ない。「なんでダメなんですか」と問われて最後は「経験だ」と説き伏せる。なかなか共有できる人間が少ないんです。
- 小山浩(以下、小山):
1990年代半ばの開発初期から10年も経つと、新人も課長クラスになっていきます。私も初号機まで関わりましたが、その後も第二世代、第三世代と代替わりし、今HTV-Xの開発に携わっている方々は第四世代ぐらいだと思います。
- —なるほど。植松さんが6号機の打ち上げ前の会見で「世代交代をしながらノウハウを伝承していきたい」と言われたことが印象に残っています。
- 植松:
はい。量産機では、モチベーションを維持していくことも難しかったですね。毎号、まったく同じ機体を作っていけば、楽です。でもそうしていたら、連続成功はできなかったと思います。変化すること、小型回収カプセル実験など新しい技術へのチャレンジを続けてきたことで11年間、人が変わる中でモチベーションを維持できたと思います。
- —増田さんは現場のモチベーションを保つために工夫されたことはありましたか?
- 増田和三(以下、増田):
初号機に成功した後、今後どうやって成功を維持していこうか考えました。結局、個々の担当者のモチベーションを維持することに尽きるなと気づいたんですね。そのために何をしないといけないか。現場で機体を作っている工作の人とか、品質を確認する品質保証の人たちに、「こうのとり」を自慢させてあげようと思ったんです。
- —自慢、ですか?
- 増田:
「これは父ちゃんが作ったんだぞ」と。2014年頃だったと思いますが、若田光一宇宙飛行士と星出彰彦宇宙飛行士が今後の有人宇宙開発がどうあるべきかについてMHI(三菱重工)の人たちと話がしたいと、愛知県に来られたことがありました。その時「絶対に名誘(MHI名古屋誘導推進システム製作所)に来て下さい」とお願いしたんです。現場の人に会ってほしかったから。「こうのとり」の工作と品質保証の人を全員工場に集めて、一緒に写真を撮らせてもらいました。その写真を全員に配った。家に持ち帰って「若田さんや星出さんと一緒に写真撮ったんだぞ、父ちゃんはここにいるよ」と自慢ができるように。
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- 若田光一(以下、若田):
それは光栄ですね。
- 増田:
「こうのとり」初号機はISSから写真をいっぱい撮ってもらいました。打ち上げ後にこんなに写真をたくさん撮ってもらえる衛星や宇宙機ってないはずで、恵まれたプロジェクトだと思うんですよ。でも「こうのとり」に目印がないことに気が付いた。そこでJAXAさんに「何か目印付けましょうよ」と提案して、一番目立つところに『国旗とHTV〇号機、JAPAN』のロゴを入れてもらうことにしました。国旗は種子島での組立作業の最後に、作業員が懇切丁寧につけていましたね。2015年8月、ISSにいた油井亀美也飛行士が『こうのとり』5号機をキャプチャしました。その時のことを、「人生の中で最も日の丸を誇らしく思った日です」とツイートされていて、「あぁ、つけてよかった」と思いましたね。
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- 増田:
他にもおそろいのTシャツを作って、みんなで種子島ロケットマラソンに出たり、社内総務課の女性社員の発案でお菓子メーカーと組んで「こうのとり」ビスケットを作ったり色々やりました。
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- —色んなことなさったんですね。千葉さんはどうですか?
- 千葉隆文(以下、千葉):
三菱電機の宇宙システム事業は完全に同じものを作る量産という文化がなくて、量産の品質管理の考え方については三菱重工さんに学ぶことが多かったですね。毎回、同じものを高い精度で同じように作らないといけない。非常に地味な作業です。一度、関連会社で太陽電池パネルを作る過程で、接着の仕方が悪くて不具合がおきたことがありました。植松さんたちJAXAの方が来られて、「指摘や改善を課すばかりではなく、自分たちが作ったものがどこに使われているか製造現場の人にちゃんと説明して下さい」と言われました。そこで「こうのとり」のポスターをたくさんJAXA、三菱重工さんから頂き現場に貼らさせてもらいました。作業者の方たちが「自分たちがこの宇宙機のこのパネルを作っている」と意識して、仕事の重要性やプロジェクトへの一体感がわくように。「こうのとり」は最初はすごく注目されたんですけど、3号機ぐらいになると工場でも直接の作業者以外にはほとんど興味をもたれなくなる。鎌倉の工場から電気モジュールを出荷するときも、他の衛星だと夜中でも大勢の人が見送るのに、「こうのとり」は私を入れて3人ぐらい(笑)。
- —寂しいですね(笑)
- 千葉:
唖然とするぐらい(笑)。当たり前ってことなんですね。でも当たり前のことを当たり前にきちっとやっていく。それを確実に全員がやることの難しさと大切さを教わったと思います。
家族の反応―子供の寝顔しか見ていなかった
- —「こうのとり」初期は本当に大変だったと思いますが、ご家族の反応はどうでしたか?
- 増田:
ある時期、帰宅が遅い日が続いたことがありました。工場と家が離れていたので子供が寝ている状態で家を出て行って、帰ってくると同じ状態で寝ている。「一日中寝てたんじゃないかな」って思った(笑)。初号機の時に家内が「子供を連れて種子島に打ち上げを見に行く!」と言い出しました。子供に父親が一生懸命にやって来たことを見せたいと思ってくれたようです。そして実際に種子島に見に行ってくれました。
- 松尾:
家族に打ち上げを見せるのはいいですよね。それ以降、仕事への理解が全然違います。「あ、こういう事をやっているんだ」って。うちは5号機の打ち上げがちょうど夏休みで子供たちはもちろん、長崎からおばあちゃんにも来てもらって見てもらうことができました。
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- —松尾さんは1998年に「こうのとり」に関わる直前、長崎でお子さんが生まれて家を建てたばかりでしたよね。当時は2002年打ち上げ予定で(MHI名誘がある)愛知県小牧市に単身赴任なさいました。打ち上げが遅れましたが、ずっと単身赴任だったのですか?
- 松尾:
なかなか長崎に帰れないので、子供が小学校に入る時に家族を愛知県に呼び寄せました(笑)
- —ご家族にも苦労があったんですね。千葉さんや小山さんは?
- 千葉:
私は家族にはまだ打ち上げを見せられてないですね。でも妻はNASAテレビの中継を見て、打ち上げやキャプチャが成功すると「おめでとう」ってメールをくれたり、娘は大学で宇宙科学を学び、宇宙に興味を持ってくれました。
- 小山:
私の結婚式の披露宴で、JAXAの河野功さんが技術試験衛星Ⅶ型『おりひめ・ひこぼし』や「こうのとり」についてプレゼン資料を作って15分位説明して下さったんです。当時は90年代でISSもまだ完成していない頃ですから、家族や親せきは「本当に実現するの?」と思ったみたいですが、後で「実現したんだね」と言ってくれました。
最終号機「2度と会えない」と涙
- —披露宴でプレゼントとは!植松さんは「こうのとり」初号機を初めてISSの宇宙飛行士がキャプチャする朝、「日本の宇宙開発の歴史を変えてくる」とご家族に告げたそうですね。ただ、9号機成功後の記者会見で「すべての号機が苦しかった」と言われ、想像が及ばない苦労があるのだと思いました。
- 植松:
成功するにつれて背負う十字架が重く、大きくなっていく。9号機はその最たるもので20年以上、多くのエンジニアや関係者が支えてきた。万が一失敗したら何万人もの努力が水の泡になってしまう。その責任感で押しつぶされそうでした。
- —確かに延期の判断に苦しんだ6号機以降も、7号機はロケット側の事情や天候で打ち上げが何度も延期になった上に、ロシアのロケットが宇宙飛行士の打ち上げに失敗して最悪の場合ISSが無人になる可能性がありました。ISSのバッテリーやHTVの運搬台(曝露パレット)をISSに置いてくるか「こうのとり」で持ち帰るかの議論がありました。また、8号機は打ち上げ数時間前に発射台で火災が起こりました。毎号機必ず何かありますね。
- 植松:
そうですね、でも7号機のフライト自体は順調で、小型回収カプセルも無事に帰って来てくれて「救う神もあるんだ」と感じました。ところが「こうのとり」打ち上げ10周年となる8号機では発射台でまさかの火事。「どれだけ試されているのか」と思いました。
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- 松尾:
私は7号機からMHIのプロマネになり射場作業に入り始めてから、続けて打ち上げ延期になったので、自分がなにか嫌なものを持っているのではと思ってしまいました(笑)。
- —大変じゃなかった号機ってあるんですか?
- 松尾:
9号機はスケジュール通りに進みましたが、新型コロナウィルス対策でとても神経を使いました。種子島に絶対にウィルスを持ち込んではならないし、作業者が感染しないように。ただ作業自体は順調でしたから、もう1個2個上げたくなりました(笑)やっと、こなれてきたっていう。
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- —9号機でやっと!
- 千葉:
電気モジュールは、4号機で地球センサーを取り換えた話をしましたが、実は小さな部品のレベルまで含めると6号機ごろまで射場でいろんなものを取り換えていました。だんだん手際がよくなってくる(笑)。
- 松尾:
9号機で直面した課題は、もし故障が起こっても次の10号機はないから、交換する部品がないということです。ロケットもH-IIB9号機で終わりですが、H-IIAの部品を使えるからまだいいのですが。そこで「HTV9号機作り込み活動」を現場がやってくれた。今日の作業はこういう作業で、どこに故障するポイントがあるかを毎朝、工場でブリーフィングする。だから製造中の失敗はまったくなかったですね。
- —千葉さんは2号機から量産プロマネでしたが、息つく暇は?
- 千葉:
大気圏に再突入して束の間の感慨に浸りますが、次の号機のシステム試験が平行して行われている。大気圏再突入の翌日は休みますが、その次の日から2交替の勤務が始まるんです。衛星運用はフルマラソンにたとえられますが、HTVは800mを走ってゴールを入った瞬間に次のレースがあって、また「よーい、どん!」と全力で走らないといけない。
- —息切れしそうです。9号機のラストはどんなふうに見てましたか?
- 千葉:
ISSから離れて軌道を下げていくのですが、その映像にぐっときましたね。筑波から自宅に帰る時に「全機成功した」という安ど感と「もうこれで終わったんだ」という寂しさを感じました。記憶に残るのは、9号機を鎌倉から出荷したときに次の号がなかったこと。2008年頃から2020年1月までずっと鎌電(三菱電機鎌倉製作所)には「こうのとり」の電気モジュールがあったのに、なくなったことが寂しくて。電気モジュールを置いていた場所の治具を解体すると言われて、「もうちょっと置いとけよ」と。打ち上げまでは何があるかわからないから治具は確保していましたが、完全にその場所がなくなることも、寂しかったですね。
- —植松さんは?
- 植松:
ISSから離れていく9号機がだんだん小さくなっていく姿を見たとき、二度と会えないと思ったら泣けてきましたね。一時期は真っ白な灰のような状態になりました(笑)
- 若田:
皆さんのお話を聞いて、9号機連続成功という高い信頼性を実現するためにもっとも重要なのは「人」だと確信しました。次の世代の人たちに繋げていく必要があると強く感じています。
未来にこの経験や知見をどうつなげていくか、そして「こうのとり」を通じて培われた「特有の文化」とはどのようなものか、次回最終回で掘り下げていきます。
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本文中における会社名、商標名は、各社の商標または登録商標です。
座談会メンバー紹介
特別参与・宇宙飛行士
有人宇宙技術部門
HTV技術センター長
(三菱重工OB)
宇宙事業部
主席プロジェクト統括
電子システム事業本部
主席技監
HTV量産機
プロジェクト部長
画像提供:NASA,JAXA,三菱重工,MHI,増田和三氏