#01 — 100年前の日常篇
「和食」がユネスコの無形文化遺産に登録されてから数年が経ちます。
「このままでは衰退する可能性がある食文化」とされた和食は、あれから歩みを前へと進めることができたのでしょうか。
2021年に創立100周年を迎えた三菱電機は、日本の暮らしとともに歩み続けてきました。
これからも家電メーカーとして日本の食文化に寄り添っていくために、
この100年間の日本人の食卓、そして家電の歩みを振り返り、次なる100年を考えていきます。
前回の企画会議で、我々日本人の暮らしが、この100年でどう変わったのかを食を中心に振り返っていくことになった和食シリーズ企画第4弾。
第1回の今回は、まずは100年前の日本人の暮らしぶりを知るべく、当時(大正時代)の東京・下町の街並みが再現されている台東区立下町風俗資料館に伺いました。
ご案内いただいたのは、
台東区立下町風俗資料館研究員(常勤学芸員)の
本田弘子さん。
裏路地がコミュニケーションの場だった大正時代
- 編集部
- 「大正100年」や「明治150年」という周年記念行事がときどき行われますが、実際に当時の生活をリアルに想像するのはなかなか難しいです。
- 本田さん
(以下 敬称略) - そうですよね。「100年前」というと、関東大震災に見舞われる前の大正時代です。当館の1Fの展示がちょうどその頃をモチーフにしています。広小路ーー表通りに面した商家から、裏路地にある駄菓子屋や銅壺(※)職人の家まで……。当時は自宅で商いをする家も多かったようです。さまざまな庶民の暮らしをできるだけ再現するようにしています。
- 火鉢の中に置いて使う湯沸かし器のこと。
大正時代の裏路地を再現
都市部の構造やインフラは、大きな災害の後に再構築されることが多い。東京都内の現代に通じる区画や幹線道路(現在の靖国通り、昭和通りなど)、また都内の主な橋梁は、1923(大正12)年に起きた関東大震災の復興事業によって整備された。同じ大正時代でも関東大震災以前は、区画や通りなど江戸時代の構造をまだ色濃く残していた。
- 編集部
- 建物だけでなく、屋外の井戸なども再現されていますね。井戸のまわりには洗濯板なども置かれています。
- 本田
- 明治の頃まではつるべで水を汲み上げる井戸が多かったんですが、この頃は手押しポンプ式の井戸が増えています。各戸に電気は来ていますが、その用途は裸電球に使うくらい。もちろん洗濯機はありません。家事のなかでも水をたくさん使う洗濯は共同の井戸のまわりで行います。長屋が多かった頃は、井戸端で様々な情報交換やコミュニケーションが行われていたんです。まさに「井戸端会議」ですね。
手押しポンプ式の井戸
- 編集部
- 井戸という日常生活に欠かせない機能を持つツールが、当時の人々のコミュニケーションの土台になっていたんですね。
- 本田
- そうですね。もっと言えば、この時代までは井戸だけでなく、路地自体がそういう機能を果たしていたんです。雨水や生活排水を流す溝(どぶ)がある狭い路地には物干しがありましたし、同じ井戸水を使って生活をともにし、裏路地というスペースを共有する。1923(大正12)年の関東大震災以降、都市部では上水道が整備されることになりますが、それ以前は「家族」だけではない「裏路地」という単位のコミュニティが強固だったのです。
- 編集部
- 各戸には入口近くに水瓶があり、ひしゃくがあります。たらいと手ぬぐいも見えますが。
- 本田
- それぞれの家が井戸から汲んできた水を各戸の水瓶に溜めておいて、煮炊きなどに使っていました。あとは土間から室内に上がるとき、手足をふくのにも使います。大正時代には洋靴もずいぶんと一般的になってきていましたが、草履や下駄などを履く家もまだ多く、部屋に上がるときの作法も現代とは少し違っていたのです。
井戸水を溜めておく水瓶
民俗学研究者の今和次郎が1925(大正14)年に東京銀座で行った服装街頭調査では、男性の67%が洋靴だったが、女性はわずか1%にとどまったという。明治時代に海外から流入してきた洋装などの新文化は、それから数十年の時間をかけて長屋住まいの庶民にゆっくりと時間をかけて浸透していった。
長屋の部屋の単位は、土間も含めて各戸6畳
- 編集部
- 各戸の共有エリアとも言える路地はコミュニティスペースでもあった、と。そこから家の中を覗き込んでみると、長屋の各戸の室内はとても狭く見えます。
- 本田
- 現代の間取りから考えると狭く感じますよね。基本的に長屋は、一区画6畳となっていて、うち1畳半が土間、残る4畳半が畳の間となっています。
- 編集部
- 何人家族という設定なんでしょうか。
- 本田
- 駄菓子屋の方は年老いた母と娘の二人暮らしですね。銅壺職人の家は親子4人という設定です。
- 編集部
- 寝るときなど、かなり窮屈そうですね。
- 本田
- 長屋で駄菓子屋のような商売をしたり、職人の鍛冶場を持つとすると、たいていは土間の1畳半が“仕事場”となるわけです。となると本来、土間に置くべき生活用品が居住空間の畳の間を侵食するわけですから、どうしても狭く感じてしまいますよね。
駄菓子屋の奥の4畳半
銅壺職人の住まい
100年前はマイ食器で食事をするスタイル
- 編集部
- この頃ーーいまから100年前はもうちゃぶ台で食卓を囲んでいた頃ですか。
- 本田
- ちゃぶ台もずいぶん普及してはいましたが、まだそれぞれのお膳がある銘々膳の方が多かったようです。特に庶民の間で重宝されていたのが「箱膳」と言われるお膳。ふだんはお重の箱のような入れ物にお碗や箸などの食器をしまっておき、食事をするときには箱のふたを返してお膳として、その上で食事をします。
- 編集部
- お膳から食器まで、家族それぞれが食事のための自分専用セットを持っていたんですね。
- 本田
- 小さくおさまり、スペースを取らない。収納のしやすさも広く受け入れられた理由でしょう。手狭な長屋暮らしではお膳や食器の収納場所も捻出しなければなりませんから。その後、食事はそれぞれのお膳で食べる時代から、家族でちゃぶ台を囲む時代へと移行していきます。関東大震災を経て、1925(大正14)年ごろには銘々膳よりもちゃぶ台で食事をする人が増えたという調査結果もあるようです。
- 編集部
- 時代が動くとき、食のまわりもまた端境期だったんですね。
箱膳の使用時イメージ
普段は箱の中に食器をしまう
- 編集部
- 土間の壁が効率的に使われているのも印象的です。たくさんの調理道具をまとめられるように、壁にかけたり、棚を据えつけたり、さまざまな工夫がなされています。
- 本田
- ほとんどの家庭では、土間にあるかまどの近くに棚がしつらえてあったようです。天井近くに荒神様(火の神様)の小さな神棚をまつり、棚には重箱、おひつ、鍋、すり鉢などが置かれています。味噌や漬け物を保存する甕(かめ)や壺(つぼ)もこのあたりに置かれていますね。
当時の調理道具
- 編集部
- あの網がかかったような、小さな戸棚はなんでしょうか。
- 本田
- 食べ物や食器を保管する蠅帳(はいちょう)ですね。紗や金網を張って、蝿などの虫をよけ、通風性を確保してあります。
- 編集部
- 昭和の頃、遅くに食事を取る人のために、テーブルの上にかぶせる傘状のカバーのようなものが「はいちょう」と呼ばれていたと聞いたことがあるのですが。
- 本田
- その原型ですね。当時はテーブルがなかったので、残しておいた食べ物をしまっておくのに、置き場所という機能を持ち合わせた蝿帳が必要だったのです。それが戦後、ちゃぶ台やテーブルを常に出しておく生活様式になり、蝿帳の形も変わったというわけです。
虫よけの蠅帳(はいちょう)
100年前、大正時代の庶民の暮らしには、それ以前の明治や江戸時代に造られた都市構造の名残りがあり、一方で現代まで使われ続ける道具やその源流も垣間見える。当時の庶民が暮らした長屋には、江戸や明治の暮らしを昭和や現代へとつなぐ佇まいがあった。
扇風機でスタートした三菱電機
- 本田
- さて、続いて2Fです。こちらでは、台東区を中心とした下町地域にゆかりのある資料や生活道具、戦時期の貴重な資料などを中心に展示しています。また、冷蔵庫などの家電製品が「三種の神器」と呼ばれた昭和30年代の庶民の暮らしを再現した部屋などもあります。
- 編集部
- 先日個人的にお伺いした際には、当社の古い扇風機などがありましたね。保存状態も良く、とても珍しい品だったので感激しました。
- 本田
- 夏の間実施していた企画展の展示ですね。一般の方から寄贈されたもので、現在は倉庫で保管しています。
昭和30年代の暮らしを再現
100年前の暮らしを訪ねる今回の企画。
その第1回「100年前の日常篇」では生活のなかに
どこか懐かしさや現代につながる工夫が発見でき、「100年前の日本」について、遠さと近さの両方が感じられました。
次回は今回も少し触れた「箱膳」などの食事様式をとり上げます。
取材・文/松浦達也 撮影/魚本勝之
2018.11.12