私の台所
Scroll Down

第十二回ずっと「私の台所」があこがれでした文筆家/ポルトガル料理研究家・馬田草織さん

いきいきとした素材をおいしい食事に変える台所。そんな魔法のようなスペースを、食や料理にまつわるプロフェッショナルはどうデザインし、
どんな風に使っているのでしょう。そこにある道具や収納、使い方は……?さまざまなプロフェッショナルの台所を巡ります。

Profile

馬田草織さん
東京都出身。文筆家/ポルトガル料理研究家。出版社勤務を経て、フリーランスに。ポルトガルの日常の食(とワイン)を紹介する「ポルトガル食堂」主宰。日々自分と女子高生になった娘のためにごはんを作っている。好きなものは納豆。最新刊は『塾前じゃないごはん』(オレンジページ)、『ホルモン大航海時代』(TAC出版)。

小さな頃から台所が好きだった。いまも何もせずとも台所でぼうっとしたり、鍋を片手に歌を歌ったり。ここは馬田草織さんと娘のダイニングであり、料理の試作や撮影をする仕事場でもあり、たまにワイン片手にポルトガルの食を楽しむ客で賑わう「ポルトガル食堂」にもなる。彼女の暮らしは台所とともにある。

初めて一人で料理を作ったのは小学校3年生の頃だった。学校から早く帰った土曜の午後、母親から「(自分で)作っていいわよ」と許しを得て、うきうきしながらインスタントの袋麺を茹でた。

それから土曜の昼に台所に立つようになった。中学に上がると週末にかぼちゃの煮物を毎週作った。あるときは鶏手羽と、翌週末には豚肉と炊き合わせた。

「当時はとにかくかぼちゃが大好きで、私も自分で作れば好きじゃないものが食卓に上らないから都合もよかったんです。実はその頃は煮魚とかあまり好きじゃなくって」

高校生の頃にはオイスターソース、大学生でクスクス。新しい調味料や食材と出会うたび、好奇心がむずむずして台所に立った。

台所を巡る最初の転機は就職してからのこと。出版社に就職して雑誌の編集部に配属され、実家を出て初めての一人暮らしに踏み切った。いつでも自由に使える自分だけの台所。一人暮らしの1DKに友人を招いては、好きな鶏団子鍋をピリ辛にんにく味噌だれで振る舞った。壁付けの台所でも、すぐ脇の座卓で盛り上がる友人たちと爆笑しながら料理(とお酒)を楽しんだ。

次なる転機は、それから10年近くが経った頃の出産だった。

「まわりの力を借りながら自分で育てることになって、目まぐるしく暮らしの環境が変わったんです。食事づくりにも時間がかけられなくなりました。それでも子どもは私が食べさせないと生きていけない。そう悟ったときから台所との向き合い方が変わりました」

料理に余計な手間はかけられない。でもいわゆる〝時短料理〟とはどこか違う。言葉にすれば、ありあわせとひと工夫。

大好きで必ず常備している納豆は、同じく冷蔵庫にいつもいる豚バラ肉や香味野菜と炒めて、冷凍しておいた茹でそばと和え、柚子胡椒で味を調える。たらこパスタは茹で鍋の上に、たらことバターを入れたボウルを置けばバターが溶けてソースができる。特別なことはしていない。

そのスタンスはいまもずっと同じ。娘が中学校に上がって塾に通うようになり、夕食は学校から帰宅した娘が塾に出かけるまでの短い時間になった。馬田さんが買い物から戻り、カウンター越しにメニューの相談をし、娘が出かけるまでの1時間で作って食べて片づける。夕食だけど、塾の前に眠くなるほど詰め込むわけにはいかない。

「手軽にぱぱっと作れて、眠くならない食事が「塾前ごはん」で、それ以外が「塾前じゃないごはん」。最初は備忘録的につけていたInstagramのハッシュタグだったんです。いまででは娘もJK――女子高生になりました」

いまのキッチンが居場所になったのは10年前、ここに越してきてから。もともとは閉じられた空間だった台所の前面を抜いて、光と空気を取り込む背の高いカウンターキッチンにしつらえた。

このカウンターは、仕事で料理を撮影する時にはパントリーになり、「ポルトガル食堂」の客を迎える窓にもなる。そして何より馬田さんと娘の間を取り持つ見えない絆がここにある。この台所は暮らしと世界をつなぐコミュニケーションの窓なのだ。そして今日も馬田さんは「塾前(じゃない)ごはん」を作る前、ビールで一息ついている。

冷凍用ラベルシール
作り置きを冷凍した時に、容器の外から中身がわかるようメニュー名や素材を手書きした「たぶんIKEAで買った」ラベルたち。日常の食事や好評なものほど登場率が高く、文字がかすれて書き直すことも。
ヤットコ鍋
「丈夫でスタックできて何でも作れる」ヤットコ鍋(持ち手のない雪平鍋)。ただし家庭ではヤットコを持ち手使いするのは取り回しにくいので、専用のハンドル(中尾アルミ製作所のパングリッパー)を使用する。
ポルトガルの皿
ポルトガルで買った皿の数々。手前は大学の卒業旅行で初めてポルトガルを訪れた1994年に買った皿。「肩の力の抜けた図柄が面白くて」行くたびに買い求めているが、近年は現地でも量産のレプリカが増えたそう。

家電のデザイナーが
プロの台所から学んだこと

三菱電機統合デザイン研究所中島彩依
カラフルな食器が並び、自然光が差し込む馬田さんの台所は、明るくはつらつとしたご自身のお人柄を反映するような空間でした。料理や愛用するお鍋の話など興味深いお話をたくさん伺いました。
とりわけ印象に残ったのは冷凍ストックの容器に貼るラベルシールのお話です。冷凍ストックの中身をテープに書くだけでなく、もう一段進めて記入済みのラベルシールをストックしておくという工夫。暮らしのなかにあるシンプルな解決策こそ長く使われるデザインになる。私たちデザイナーが目指すべきお手本のような道筋でした。
私たちは自身の専門分野でユーザーの困りごとを解決しようとしがちですが、もっとシンプルな工夫から解決へ導いてもいい。そんな気づきをいただいて、これからより一層ユーザーが暮らす環境に緻密に考えを巡らせ、その気持ちや暮らしに寄り添ったデザインを心がけようと強く思いました。

構成・文/松浦達也 撮影/吉澤健太
2024.12.02