2011年2月 vol.02
宇宙に行くための闘いの日々をこえて
-向井千秋氏インタビューその2
1998年の2度目の宇宙飛行中、スペースシャトルのフライトデッキで(提供:NASA/JAXA)
○アメリカ人なら5回は宇宙に?
―ところで向井さんが宇宙飛行士に選ばれた頃と今と比べて、どこがどう違いますか?
向井:ものすごい進歩ですね。私たちが宇宙実験を始めた1980年代はNASAと日本のパイプ役ができる人は数えるほどしかいなかった。でも今や若手の研究者や技術者が電話一本でNASAの連中とやり合うようになっているし、国際プロジェクトができる人材が育っています。
私たちの頃は何もかもが初めての経験だったのです。そもそもNASAの宇宙飛行士にはアメリカ人しかなれなくて、外国人は私たちのようなペイロードスペシャリスト(1回ごとの専門家宇宙飛行士)の枠組みしかありませんでした。そのため飛行ごとに搭乗できるか否かをかけて戦っていました。
その後、国際宇宙ステーション(ISS)プロジェクトが出てきて、NASAジョンソン宇宙センターに世界の宇宙飛行士を集めた方がNASAがコントロールできると、国際ミッションスペシャリスト(搭乗運用技術者)コースをつくったんです。その一期生が若田飛行士です。
―なるほど、がらっと変わったんですね。
向井:そう。私たちの頃はスペースシャトルの「利用の黄金時代」でね。宇宙実験室「スペースラブ」を使ったミッションが軒並みあった。だから私は宇宙実験飛行があるたびに自分の能力をアピールして応募し続けて、20年間NASAにいる間、切れ目なく飛行に任命されていたんです。宇宙飛行が2回、バックアップとして関わった宇宙飛行が2回、そして5回目に任命されたのが、2003年のコロンビア号のSTS-107ミッション。この時は科学実験のとりまとめをする副責任者でした。科学実験は大成功したのに、帰還時に空中爆発して大切な友人の命が失われました。
―外国人ペイロードスペシャリストで5回も宇宙飛行に関わった人はいないのではないでしょうか。
向井:私がアメリカ人だったら5回宇宙飛行をしていたと思う。でもスペースシャトルは他国の乗り物だからね。本当はコロンビア号の事故のあとにもう1回宇宙実験飛行があって、日本の実験装置が搭載される予定だったんです。コロンビア号事故後は、友達が死んでしまう、大成功を納めた科学実験がダメになってしまった、次の飛行チャンスもなくなる・・・と落胆してフランスに向かい、国際宇宙大学で若手の研究者を指導しましたね。
―そのときに医者に戻ろうとは思わなかったのですか?
向井:思わなかったですね。宇宙実験の立ち上げの頃から関わっている先生方と「宇宙利用を推進して一区切りがつくまでお互いに抜けられないね」と言っているんです。きちんとした形で次の世代に交代していければと思っています。
○矢尻の先端となって
―今のISSの利用状況をご覧になっていかがですか?
向井:今は「きぼう」を使った宇宙実験のテーマ募集が不定期に行われていますが、定期的に年に1回くらい募集をかけることが必要ですね。いい研究者ほど色々な研究をやっていて忙しい。公募があることも知らないし、知ったとしても数週間の応募期間で応募書類を書けない可能性もあるけれど、毎年公募があるなら次の年に出せる。そうしないとユーザーの層が広がらないですよね。
また研究者を支える予算も足りない。日本人は優秀だと思います。でも宇宙予算がNASAの十分の一、ヨーロッパ宇宙機関の三分の一しかない。それでもISS利用の5機関の一つとして対等にやっている。日本のISS利用権は12.8%とNASAに次いで多いんです。一方、ヨーロッパの利用権は8.3%です。つまりヨーロッパ宇宙機関がISSを利用できる時間は、日本より少ない。でもヨーロッパは日本やNASAと共同実験を行い、地上研究を盛んに行って日本の3倍ほど研究論文を出している。研究者に研究資金を提供できる仕組みがきちんとあるんですね。
宇宙医学生物学研究室のロゴマーク。地球から宇宙ステーションへ、月へ、火星へ。研究員一人一人が矢尻の先端となって切り開いていってほしいという向井さんの願いが込められている。
―今後についてはいかがでしょうか。
向井:私はあと2年で定年の年ですが、しっかりした若手の人が出てきて区切りがついてきていると思います。私がこの研究室に込めた思いは、ロゴマークに表れています。地球上から宇宙ステーション、月面、火星に矢尻がのびている。矢尻の先端が自分たちだと思ってバリアも突き破ってどんどん進んでちょうだいと。特に月面での医学を推進することは、1G以下の可変重力環境の研究を推進することなのですが、アメリカもロシアも経験がなく、日本が一番になれる分野だと期待しています。