文化・教養
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先人に学ぶ
杉山龍丸 インドで緑地化に献身したグリーン・ファーザー
2016年1月公開【全1回】
インドで緑地化に献身したグリーン・ファーザー
インドには二人の偉大な父親がいると言われる。一人は、英国からの独立に力を尽くした「独立の父」、ガンジー。そしてもう一人は、日本人ながらインドの国土緑地化のために命がけで奔走した「緑の父」、杉山龍丸である。
大正8年(1919年)、福岡市で三人兄弟の長男として誕生した龍丸の人生を語るには、彼の祖父と父の存在が欠かせない。祖父の茂丸は、政財界で活躍。アジアの国々の独立に向けた運動を助け、人々が豊かに暮らすために働いた。また幻想文学の第一人者「夢野久作」として知られる父の泰道は、文学を究めながらも「これからはアジアの時代。アジアの国々が独立した後に必要となる農業指導者を養成するため、農園をつくりたい」という茂丸の思いに従い、4万6000坪の敷地を得て農園を営んだ。そんな祖父と父の姿を見ながら育った龍丸にはおのずと「アジアの人々のために生きる」という思いが育まれていった。
ところが、龍丸が16歳のときに祖父、その翌年には父親が相次いで他界。失意の中、龍丸は家族を養うために18歳で陸軍の士官学校へ入学する。戦時中は航空整備将校として戦地へ赴いた。
終戦後、龍丸に転機が訪れる。偶然再会した友人からインド人の青年を紹介され、後見役を託されたのだ。これをきっかけに、貧しい人々を救うために農業や産業の技術を習得しようと来日するインド人青年たちを受け入れていった。その中で、龍丸はガンジーの直弟子と出会う。世界の平和を願うガンジーの教えを守り、国のために無心に働く青年の姿に、龍丸は心打たれ、インドへの思いを強くしたのだった。そんなある日、インドから特使が送られてくる。長年の教育活動がネール首相に感銘を与えたのである。
私財を投げ打ち緑地化を推進
昭和37年(1962年)、龍丸に初めてインドへ渡る機会が訪れる。パンジャブ州の総督に招かれたのだ。そこで生活を豊かにするための意見を求められた彼は、植林が必要なことを力説。インドとパキスタンを結ぶ国際道路への植林を提案する。この道路はヒマラヤ山脈と並行して走っており、山脈に降った雨が地下に潜る。ここに根が深く伸び、乾燥にも強いユーカリの木を植えることで、大地に水分が蓄えられると考えたのである。ところがその途端、インドは大飢饉(ききん)に見舞われ、龍丸の計画も危機に瀕する。国連本部に直談判をするも門前払いを受け、窮状の中で郷里の杉山農園を売り払うことを決意。私財を投げ打って緑地化を推し進めた。当初、現地の農民たちにも協力を求めたが、異国の人間の言葉に耳を貸す者はいなかった。
だが自ら先頭に立ち、苗木を植える作業をする龍丸の熱意を感じ、農民たちが参加。やがて470㎞にも及ぶ国際道路にユーカリの並木が連なった。この活動によって不毛の大地は作物が育つ地質に変化。水を蓄えた大地に稲を植えることにも成功する。
粘り強い努力で希望を見いだす
数年後、龍丸の元に再び難問が持ちかけられた。ヒマラヤ山脈南方のシュワリック・レンジ(丘)の度重なる深刻な土砂崩れが、麓の都市を破壊しているという。龍丸のほかに支援に参加した人々が撤退する中、彼は粘り強く地盤調査を続けた。この努力が奏功し、砂漠地帯でも成長して、花や実が食用になるモリンガの木を発見。緑地化への第一歩を成功させた。こうした活動が認められ、昭和59年(1984年)にオーストラリアで開かれた国際砂漠会議に出席。そこで成果を発表し、世界中から喝采を受けたのである。龍丸の意欲はますます高まるが、皮肉にも翌年68歳で脳出血に倒れてしまう。だが、病床でも世界中の緑地化を夢見続けたという。
「不可能と思わなければ、何事も可能だ」。困難にぶつかりながら砂漠の緑地化に情熱を傾けた彼がよく使った言葉である。この遺志を継ぎ、農民たちの手で緑地化事業は続けられた。今、シュワリック・レンジには龍丸の功績をたたえるように緑の木々が生い茂っている。
文:宇治有美子 画像提供:夢野久作と杉山三代研究会 参考文献=『グリーン・ファーザー』(杉山満丸著/ひくまの出版)
※この記事は、2015年3月発行の当社情報誌掲載記事より再編集したものです。
- 要旨 杉山龍丸
- インドで緑地化に献身したグリーン・ファーザー
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